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鎌倉幕府滅亡後の鎌倉は、1334年(建武元年)に後醍醐天皇の皇子成良親王を擁して下向していた足利尊氏の弟直義が治めていた。 しかし、その翌年、北条高時の遺児時行が反乱を起こし、7月25日には鎌倉を奪還(中先代の乱)。 直義や成良親王は鎌倉を逃れるが、その折、東光寺(現鎌倉宮)に幽閉されていた護良親王が直義によって殺されている(参考:護良親王の墓)。 |
鎌倉を時行に占拠されてしまった尊氏は、後醍醐天皇に時行討伐と同時に征夷大将軍の官職を望むが拒否されてしまう。 尊氏は、後醍醐天皇の許可を得ないまま鎌倉に軍勢を進め、三河まで撤退していた直義と合流し、相模川の戦いで時行を破って、8月19日、鎌倉を再び足利氏の手中とした。 この時、直義と行動を共にした成良親王は京に帰されている。 鎌倉に入った尊氏は、後醍醐天皇の上洛命令を無視し、武家政権創始の動きを見せ始め、新田義貞の討伐を要請するが、後醍醐天皇は義貞に尊氏討伐を命じる。 尊氏は一時浄光明寺に蟄居するが、各地で足利方が劣勢になると、「建武の新政」からの離脱を決意し、鎌倉へ向けて出兵してきた義貞を撃破して、一気に京へ上り、1336年(建武3年)正月には京を支配下に置いた。 |
京を支配下に置いた尊氏だったが、間もなく、奥州から上洛してきた北畠顕家や楠木正成・新田義貞の攻勢を受けて、2月には京都を放棄して九州へ撤退。 九州で勢力を立て直した尊氏は、5月22日、石津の戦いで北畠顕家を、5月26日、湊川の戦いで楠木正成を敗死させ、6月14日に光厳上皇、豊仁親王を奉じて入京し、再び京を支配下に置いた。 尊氏が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れ、8月15日には光厳上皇の院宣により豊仁親王が践祚され光明天皇が誕生している。 |
尊氏に奉じられた光厳上皇は6月14日より半年間、東寺の小子房で政務を執り、尊氏は千手堂(食堂)に居住していたのだという。 |
尊氏と対立した後醍醐天皇は、吉野に行幸して南朝を興している。 |
1336年(建武3年)8月17日、足利尊氏は自筆の願文を京都清水寺に奉納している。 「この世は夢の如くに候」で始まるもので、内容は、「自分に仏の加護を賜り、後生の安寧を願うとともに、現生での果報は弟の直義に与えていただきたい」といったもの。 後醍醐天皇との戦いに勝利した時期に、何故このような願文を奉納したのかは定かではないが、前年に後醍醐天皇の意に逆らい、一時、浄光明寺に蟄居したという経緯もあることからなどから注目されているという。 11月7日、尊氏は建武式目を定めているが、願文奉納後から尊氏・直義の兄弟が対立することとなる1350年(正平5年/観応元年)頃までは、恩賞給付の最終的承認権以外の一切の権限を直義が行使していたのだという(参考:観応の擾乱)。 |
1333年(元弘3年)、得宗の北条高時が自刃したことによって、鎌倉幕府は滅亡したが、高時の子時行は落ちのび、のちに諏訪頼重に担がれ中先代の乱を起こし、一時鎌倉を占領する。 その後も北畠顕家や新田義貞の遺児とともに足利尊氏と戦うが、捕らえられ、1353年(正平8年)5月20日、龍ノ口で斬首された。 これによって北条得宗家が滅亡する。 |
北条得宗家の滅亡〜最後の得宗北条時行〜(okadoのブログ) 足利尊氏の建武式目(okadoのブログ) 護良親王(大塔宮)の失脚(okadoのブログ) |
浄光明寺は、1251年(建長3年)、北条長時(のちの六代執権)によって再興された真言宗の寺。 足利尊氏・直義兄弟にゆかりのある寺でもある。 |
鎌倉市扇ガ谷2−12−1 0467(22)1359 鎌倉駅西口から徒歩15分 |
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