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鎌倉宮は、1869年(明治2年)、明治天皇によって護良親王を祀るために建てられた。 長い歴史において、この鎌倉宮が唯一「天皇自らが創建」した神社。 祭神の護良親王は、「建武の新政」を行なった後醍醐天皇の皇子。 親王は、楠木正成らとともに鎌倉幕府打倒を目指して戦い、幕府滅亡後には征夷大将軍に任ぜられたが、1334年(建武元年)11月15日、武家政権を狙う足利尊氏と対立し、この地にあった東光寺に幽閉されてしまう。 翌1335年(建武2年)、十四代執権北条高時の子北条時行が反乱(中先代の乱)を起こした際、足利尊氏の弟の直義によって殺害された(7月23日)。 境内には、親王が幽閉されていたとされる土牢が残されている。 |
祭神 | 大塔宮護良親王 |
護良親王は、2度にわたって天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となり大塔宮と称された。 鎌倉宮も「大塔宮」と呼ばれている。 |
三千院 (京都) |
念仏寺 (京都) |
護良親王が入室したのは梶井門跡(現在の三千院)。 三千院の南にある念仏寺は護良親王の創建。 |
大塔宮と呼ばれた護良親王〜なぜ大塔宮なのか?〜 |
祭神護良親王 |
南方社と村上社 |
構廟(御首塚) |
多宝塔 |
「かわらけ」に息を吹きかけ「厄割り石」に投げつけて割ると厄払いになるといわれる。 厄割り石は拝殿前と大鳥居横の2箇所に設けられている。 |
※ | 古くより行われる「かわらけ投げ」は、厄よけなどの願いをかけて、素焼きの酒杯や皿を投げるもので、京都・神護寺が発祥の地とされる。 |
理智光寺跡 |
護良親王墓 |
殺害された護良親王の首は、理智光寺(廃寺)の住職によって葬られたのだと伝えられ、理智光寺跡には親王の墓がある。 |
吉野は討幕の挙兵をした護良親王が本拠とした地。 村上社に祀られている村上義光は、吉野城の戦いで護良親王の身代わりとなって自害した。 |
大塔宮仰徳碑 |
村上義光の墓 |
大塔宮仰徳碑は、大塔宮と呼ばれた護良親王の功績を讃える碑。 義光の遺体は里人によって葬られたと伝えられ、その地には村上義光の墓が建てられている。 |
護良親王の身代わりとなって自刃した村上義光 |
『新編相模国風土記稿』によると、護良親王が幽閉されたという東光寺は、覚園寺東南の山麓にあって医王山と号する禅刹だったのだという。 源頼朝の創建とも二階堂行光の創建ともいわれるが詳細は不明。 廃寺となった後、本尊の薬師如来は名越の長善寺に移されたのだと伝えられている。 その後、長善寺は大町に移転し、現在は薬師堂が残されている。 横浜市金沢区の東光禅寺の寺伝では、東光寺は畠山重忠の創建とされ、応仁年間に武蔵国の釜利谷郷に移転したのだとか。 |
東慶寺第五世の用堂尼は、護良親王の妹。 護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれている。 江戸時代には、護良親王の土牢や墓、理智光寺は東慶寺に管理されていた。 東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。 |
妙法寺の中興開山となった日叡は、護良親王と南の方との間に誕生。 妙法寺の裏山には護良親王と南の方の墓が建てられている。 |
節分祭 |
伊豆の頼朝 |
節分祭では、鐘や太鼓で鬼を追い払う「鬼やらい神事」が行われる。 鎌倉まつりでは、伊豆の国市の小学生が演じる「伊豆の頼朝」が上演されてきた。 |
草鹿 5月5日 |
例大祭 8月20日 |
端午の節句の草鹿は、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りが起源。 例大祭は護良親王の命日にあわせて行われる。 |
河津桜 |
アジサイ |
鎌倉宮の河津桜は、おそらく、鎌倉で一番早く咲く桜。 神苑にはアジサイが植えられ6月中旬頃に見ごろを迎える。 |
童謡・唱歌「鎌倉」に歌われた社 |
明治天皇を祀る明治神宮は、2020年(令和2年)で創建100年。 |
鎌倉市二階堂154 0467−22−0318 鎌倉駅から大塔宮行バス終点下車 |
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