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鎌倉宮の祭神護良親王は、1308年(延慶元年)、後醍醐天皇の皇子として誕生。 1318年(文保2年)、尊雲法親王として梶井門跡(現在の大原三千院)に入室。 1327年(嘉暦2年)と1330年(元徳2年)には天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となり、大塔宮と呼ばれるようになる。 1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が倒幕のための「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦。 その後、足利高氏(尊氏)、新田義貞の参戦もあって、1333年(元弘3年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡した(参考:鎌倉幕府の滅亡)。 |
護良親王が入った梶井門跡(三千院)は、最澄が比叡山延暦寺を開いた時に東塔に建立された一院を起源とし、平安時代後期以降は皇子皇族が住持する門跡寺院となったのだという。 |
吉野山の火見櫓にある護良親王の功績を讃える碑。 |
吉野山には側近だった村上義光の墓がある。 |
京都大原の念仏寺は護良親王の創建。 |
大塔宮と呼ばれた護良親王〜なぜ大塔宮なのか?〜 |
護良親王は、幕府滅亡後も大和信貴山の毘沙門堂にあって、兵を集めていたという。 後醍醐天皇が 「天下も静まったのだから兵を集めるのはやめ、すみやかに出家剃髪して叡山座主として行に専念するように・・・」 と勅使を送ると、護良親王は、 「足利高氏は、わづかに一戦の功をもって万民の上に立ち権勢を得ようとしている。 まだ勢力の小さいなうちに討たなければ、北条高時よりも強大な敵になりかねない・・・」 と答えたという。 その後、護良親王は征夷大将軍に任ぜられ入京するが、後醍醐天皇は足利高氏の討伐は理由がないとして退けている。 |
※ | 足利高氏(尊氏)は、鎌倉幕府討滅の勲功第一として、鎮守府将軍に任ぜられ、30ヶ所の所領を与えられた。 しかも、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字をもらい「尊氏」と改名している。 |
※ | 六波羅潰滅に尽力した赤松一族は少ない恩賞に終わった。 これは赤松一族が護良親王に近い存在だったからともいわれている。 |
※ | 後醍醐天皇が隠岐にいる頃、護良親王は後醍醐天皇の代理と称して、従う武士たちに所領安堵などを行っていたが、後醍醐天皇が京に戻ると護良親王の措置を一切無視したという。 以前より後醍醐天皇と護良親王との間には深刻な対立があったのかもしれない。 |
征夷大将軍となった護良親王は、足利尊氏討伐の名目で兵を召し抱え、その数を増やしていった。 集められた兵は、夜な夜な京白河あたりをうろついて辻斬りをしていたという。 そのうち、護良親王は、諸国へ令旨を使わし兵を集めるようになる。 これを聞いた足利尊氏は、護良親王の継母阿野廉子を通じて後醍醐天皇に対し 「大塔宮は、帝位を奪うため諸国の兵を募っている。その証拠は明らか」 と奏聞し、護良親王の令旨を差し出している。 激怒した後醍醐天皇は、 「大塔宮を流罪に処すべし」 として、清涼殿での集まりに事よせて護良親王を呼び寄せ、そうとは知らずに参内した護良親王を馬場殿に押しこめた。 護良親王は後醍醐天皇に弁明の手紙を書いたというが、取り次いだ公卿が関わり合いになるのを恐れ奏聞しなかったという。 後醍醐天皇の措置に人々は、 「護良親王の武功によって天皇に返り咲くことができたのに、多少の過失によって流罪としたのは、再び朝廷が力を失って武家が栄える前兆だろう」 と噂したのだとか。 |
1334年(建武元年)11月15日、護良親王は鎌倉に流され、足利尊氏の弟直義に身柄を預けられた。 直義は、二階堂の土牢に護良親王を押しこめ、南の方以外の付き添いは許さなかったのだという (※参考:鎌倉宮の南方社と村上社)。 護良親王は、その土牢で約9ヶ月間にわたる幽閉生活を送った。 1335年(建武2年)7月、北条高時の遺児時行が反乱を起こすと、鎌倉を守っていた直義は、7月23日、淵辺義博に命じて護良親王を殺害し鎌倉を逃れた。 殺害の理由は、時行が護良親王を奉じることを虞れたためと考えられている(中先代の乱)。 |
鎌倉宮の南方社は、護良親王とともに鎌倉へ下り、親王に仕えた藤原保藤の娘・南の方を祀っている。 |
鎌倉宮には、護良親王が幽閉されていたという土牢が残されている。 ただ、実際に幽閉されたのは、このような岩窟ではなく、土蔵造りの牢屋だったと考えられている。 |
御首塚は護良親王の首が捨てられていたという場所。 護良親王は、義博の刀を噛み折り、死んでもなお放さなかったことから、恐れをなした義博は首を捨てて逃げ去ったのだという。 |
捨てられた護良親王の首は、理智光寺の住僧によって葬られたのだという。 |
六波羅探題が足利高氏や赤松円心らによって落とされた後、護良親王に仕える殿法印良忠という男の配下が、土蔵破りをして財宝を盗み出すという事件があった。 尊氏は、20余人を召し捕って六条河原で斬罪に処し、 「大塔宮の配下、殿法印良忠の手の者ども、所々で白昼強盗を働くので誅殺した」 という高札を立てたのだという。 このような事件があったので、護良親王は尊氏追討を考えるようになったのだとか・・・。 |
阿野廉子は、後醍醐天皇が隠岐に流されたときも付き従い、京に戻ると絶大な権力を握るようになっていたという。 廉子は数人の皇子を生んでいるので、その皇子を皇位につけるためには護良親王が邪魔だったともいえる 源頼朝の異母弟阿野全成の子孫ともいわれている。 |
東慶寺第五世の用堂尼は、護良親王の妹。 護良親王の菩提を弔うために東慶寺に入ったのだといわれている。 江戸時代には、護良親王の土牢や墓、理智光寺は東慶寺に管理されていた。 東慶寺には、護良親王の幼名「尊雲法親王」が書かれた位牌が祀られている。 |
妙法寺の中興開山となった日叡は、護良親王と南の方との間に誕生。 妙法寺の裏山には護良親王と南の方の墓が建てられている。 |
護良親王は、戦のときに獅子頭を兜の中に入れて出陣したという。 |
鎌倉宮例大祭は8月20日。 護良親王が殺害された7月23日を現在の暦にすると8月20日になるらしい。 |
鎌倉宮は、鎌倉に幽閉され悲運の最期を遂げた後醍醐天皇の皇子護良親王を祀るため、明治天皇が自ら創建した神社。 大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれ親しまれている。 |
鎌倉市二階堂154 0467−22−0318 鎌倉駅から大塔宮行バス終点下車 |
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