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三千院は、延暦年間(782年−806年)に最澄が比叡山の東塔に開いた円融院(円融房)がその始まり。 1086年(応徳3年)、坂本の梶井を本拠として「梶井宮」と称されるようになり、1130年(大治5年)には、堀河天皇の皇子・最雲法親王が第14世梶井門跡となる。 以後、皇室や摂関家の子弟が歴代の住持となっていたが、1232年(貞永元年)に焼失した後は、京都の洛中や東山を点々としていたのだという。 明治維新後、門跡だった昌仁法親王の還俗にともない、1871年(明治4年)、当時、京都御所周辺にあった仏像や仏具などが大原に移され、三千院と称されるようになった。 「三千院」は梶井門跡の持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額「一念三千院」から取ったもの。 本尊は薬師如来。 |
境内の往生極楽院は、恵心僧都源信が父母の菩提のため、姉の安養尼とともに建立したと伝えられている阿弥陀堂。 元来、三千院と往生極楽院は別の寺院で、1871年(明治4年)に梶井門跡のが大原に移転したことにより、その境内に取り込まれたもの。 |
護良親王は、後醍醐天皇の皇子。 6歳の頃に尊雲法親王として梶井門跡に入室し、1327年(嘉暦2年)には、天台座主(比叡山延暦寺の貫主)となり大塔宮と敬称されたのだという。 三千院の南にある念仏寺は、護良親王の創建。 |
1331年(元弘元年)、後醍醐天皇が倒幕のための「元弘の乱」を起こすと、護良親王は還俗して倒幕運動に参戦。 しかし、鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏と対立し、鎌倉の東光寺に幽閉された後、殺害された。 親王が幽閉された東光寺の跡には、明治天皇によって親王を祀る鎌倉宮が創建されている。 |
鎌倉宮 |
護良親王墓 |
大塔宮と呼ばれた護良親王〜なぜ大塔宮なのか?〜 |
紫式部の『源氏物語』〜夕霧の巻〜で一条御息所と落葉宮が移り住んだ「小野の山荘」は、修学院離宮辺りという説があるが、三千院の辺りだったという説も。 夕霧巻の舞台となる小野の里は、大原から松ヶ崎の辺りまでを指していたらしい。 「朝夕に泣く音を立つる小野山は 絶えぬ涙や 音無の滝」 これは夕霧が落葉宮に贈った歌。 三千院の奥には音無の滝がある。 |
「源氏一品経」は源氏供養のために作られた願文。 源氏供養は地獄に墜ちたという紫式部を供養するためのもの。 三千院所蔵の『拾珠抄』(しゅうじゅしょう)には、1168年(仁安3年)ころに安居院澄憲によって作られたものが収められている。 |
京都府京都市左京区大原来迎院町540 京都駅または国際会館駅から京都バスで大原下車 |
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