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源頼朝が創設した鎌倉幕府(武家政権)。 その基本は、御家人の「忠誠と奉公」、御家人に対する「所領安堵」と「新恩の支給」。 しかし、鎌倉時代の後半になると、元寇の恩賞に関する問題等が発生し、御家人は困窮していった。 幕府は徳政令(永仁の徳政令)を出すなどして御家人救済に努めたが解決には至らず、各地で悪党と呼ばれる者が活動を始め、幕府と御家人との信頼関係も薄いものとなっていった。 そんな中、天皇親政を志す後醍醐天皇が即位し、時代が大きく動き始める。 |
1318年(文保2年)、後醍醐天皇が即位。 後醍醐天皇は、天皇親政を志す。 |
1324年(正中元年)、後醍醐天皇は倒幕を企てるが、事前に六波羅探題に察知され、計画に参加した側近の日野資朝と日野俊基が捕らえられた。 翌年、資朝は佐渡に流されたが、後醍醐天皇と日野俊基は許されている。 |
「正中の変」後も討幕を考えていた後醍醐天皇は、1331年(元弘元年)、またもやその計画を六波羅探題に察知されてしまう。 後醍醐天皇は笠置山で挙兵、皇子の護良親王や楠木正成もこれに応じて挙兵するが、翌年、後醍醐天皇は捕らえられて隠岐へ流され、側近の日野俊基は鎌倉に送られて葛原ヶ岡で処刑された。 先の「正中の変」で佐渡に流されていた日野資朝も斬罪に処せられている。 |
後醍醐天皇の倒幕計画と日野俊基(正中の変・元弘の変) 後醍醐天皇の討幕計画と宝戒寺開山の円観慧鎮(元弘の変) |
幕府は、1332年(元弘2年)、千早城に立て籠もる楠木正成を攻撃したが、なかなか崩すことができなかった。 このことが各地で倒幕の気運が高まった原因ともいわれている。 |
1333年(元弘3年)初め、護良親王が楠木正成と呼応して吉野山を本拠として挙兵したが、閏2月1日、鎌倉幕府が編成した二階堂道蘊率いる6万の軍勢に攻められて落城。 この戦いで、村上義光が護良親王の身代わりとなって自刃している。 その後、高野山へ落ちた護良親王は、千早城を囲む幕府軍の兵糧を遮断した。 |
吉野山 |
村上義光の墓 (吉野山) |
1333年(元弘3年)、赤松円心が挙兵。 後醍醐天皇も隠岐を脱出し、船上山で倒幕の綸旨を発した。 足利高氏(尊氏)も幕府に反旗を翻し、5月7日、赤松円心らとともに六波羅探題を攻め落とした。 |
六波羅探題は、1221年(承久3年)の承久の乱後に設置された鎌倉幕府の出先機関。 六波羅蜜寺に六波羅探題府址の碑が建てられている。 |
東福寺の六波羅門は、六波羅探題から移築されたもの。 陥落の際の矢庇のあとが残されているという。 |
蓮華寺は、陥落した六波羅探題北方の北条仲時をはじめとする140余名が自刃した地。 |
足利高氏らが六波羅探題を落とした翌日の1333年(元弘3年)5月8日、上野国生品神社で新田義貞が挙兵。 小手指原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで北条軍を破り、鎌倉を巨福呂坂、仮粧坂、極楽寺切通の三方から攻めた。 そして、5月21日、稲村ヶ崎から鎌倉への突入に成功する。 この攻撃で得宗・北条高時をはじめとする北条一族は、5月22日、東勝寺で自刃。 源頼朝の鎌倉入りから153年、鎌倉幕府は滅亡した。 |
後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞は、生品神社で挙兵。 |
分倍河原 (新田義貞像) |
稲村ヶ崎 |
※ | 鎌倉幕府滅亡のとき、東勝寺の住職だった信海和尚は、本尊の大日如来を救い出し、逗子市池子に東勝寺(東昌寺)を建てたといわれている。 |
洲崎古戦場跡 |
泣塔 |
洲崎は、鎌倉を攻める新田義貞軍と、巨福呂坂を守る赤橋守時軍が衝突した所。 戦いは60回にも及んだといわれている。 敗れた幕府軍は、守時ら90人が自刃した。 泣塔は、洲崎の戦いの戦死者の供養塔と考えられている。 赤橋守時は鎌倉幕府最後の執権(十六代執権 参考:嘉暦の騒動)。 |
稲瀬川 |
十一人塚 |
十一人塚は、極楽寺切通から鎌倉に突入しようとして稲瀬川で討死した、新田軍の侍大将・大舘宗氏ら11人が葬られた所とされている。 新田義貞は、開戦当初、仮粧坂を攻めていたが、宗氏の死によって指揮系統が失われた極楽寺坂に転戦し、聖福寺に陣を布いて指揮をとったのだという。 |
九品寺は、鎌倉に突入した新田義貞が本陣を構えた場所といわれ、鎌倉で唯一の新田義貞ゆかりの寺。 |
宝戒寺は、後醍醐天皇が北条一族の霊を弔うために、足利尊氏に命じて建立させた寺。 開山の円観は、元弘の変で、北条氏調伏の祈祷をしたとして捕らえられ、陸奥に流されていた。 |
後醍醐天皇の討幕計画と宝戒寺開山の円観慧鎮(元弘の変) |
釈迦堂ヶ谷やぐら群の発掘調査で発見された五輪塔の地輪。 |
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