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嘉暦の騒動
最後の執権赤橋守時の就任

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 1311年(応長元年)、九代執権の北条貞時が死去した後、内管領長崎円喜と外戚安達時顕が嫡子北条高時の補佐を務めていた。

 1326年(正中3年)、北条高時が病のため執権職を辞任すると、得宗家の内管領長崎氏と得宗家外戚の安達氏が対立する。

 長崎氏は、高時の長子邦時を得宗家の後継者とし、執権就任までの中継ぎとして北条貞顕を十五代執権にしようとした。

 一方の安達時顕と安達一族は、貞顕の執権就任に反対し、高時の弟北条泰家を執権に推挙していた。

 1326年(正中3年)3月16日、貞顕の執権就任が決定すると、貞顕に恥辱を受けたとして泰家が出家してしまう。

 さらに、泰家が貞顕を殺そうとしているという噂が流れ、貞顕は執権就任わずか10日で出家し、執権職を辞任した。

 貞顕が出家した後、十六代執権には北条(赤橋)守時が就任した。

 その後、高時の長子邦時は得宗の後継者となるが、邦時が成長する前に、幕府滅亡の日を迎えることになる。










〜長崎氏〜

 長崎氏は、平禅門の乱で滅亡した平頼綱の一族。

 長崎円喜と高資の父子は、北条高時の代に内管領となり、実権を掌握していた。

 1318年(文保2年)頃から起こった奥州安東氏の内乱に、長崎高資が内乱当事者の双方から賄賂を受け取り、幕府の信頼を失墜させたといわれている。

 1331年(元弘元年)、長崎高資の専横に対し、北条高時は、高資の討伐を謀るが失敗に終わっている。

 1333年(元弘3年)の幕府滅亡に際しては、長崎円喜、高資、高重の三代が東勝寺で高時ら北条一族とともに自刃。 





〜安達氏〜

 安達氏は、霜月騒動で滅亡した安達泰盛につながる一族。

 平頼綱が討たれた後、幕政への復帰が許された。

 安達泰宗の娘(覚海尼)は、九代執権北条貞時に嫁ぎ、高時と泰家を産んでいる。

 また、長崎氏とともに高時の後見役を務めていた安達時顕は、霜月騒動で滅ぼされた宗顕の子。

 娘を高時に嫁がせ外戚となった。

 さらに、嫡子高景は、長崎円喜の娘を嫁とし、内管領とも縁戚関係を作った。

 1333年(元弘3年)の幕府滅亡に際し、東勝寺高時ら北条一族とともに自刃。





〜最後の執権赤橋守時〜

 嘉暦の騒動後、執権となった北条守時は、六代執権北条長時を祖とする赤橋流で、赤橋守時とも呼ばれている。

 執権にはなったが、実権は得宗家に握られていた。

 守時の妹は、足利高氏(尊氏)に嫁いだ登子。 

 1333年(元弘3年)、高氏が鎌倉幕府を裏切ると、高氏の外戚であることから守時の幕府での立場が悪化。

 倒幕の挙兵をした新田義貞が鎌倉へ進軍してくると、巨福呂坂防衛のため出撃するが、激戦の末、洲崎で最期を遂げている。



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