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青梅聖天と巨福呂坂

編集:yoritomo-japan.com








青梅聖天


 鶴岡八幡宮から建長寺へと向かう巨福呂坂切通は、現在の巨福呂坂(小袋坂)の上を通っていた。

 その鶴岡八幡宮側の入り口が青梅聖天社。

 双身歓喜天を祀る社。

 『新編鎌倉志』によれば、病気になった将軍が季節はずれの「青梅を食べたい」というので、家臣が社で祈願すると梅の木に実がついた。

 それを食べた将軍は快癒し、以来、青梅聖天と呼ばれるようなったという。

 病になった将軍というのは三代将軍源実朝だったとも伝えられている。


リンクボタン鎌倉の古道

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 かつて、聖天さまの先には古井戸があって、江戸時代の泥棒「鼠小僧次郎吉」が手足を洗ったといわれている。

 その井戸の前には茶屋があって、店の猿が客に愛想をふりまき人気を集めていたことから「猿茶屋」と呼ばれていたという。

 また、江戸から八幡宮まで遠乗りをしてきた侍が休息した所なので「遠馬茶屋」とも呼ばれていたらしい。

 英勝寺の方丈さまが猿を見にきたという記録もあるという。





〜巨福呂坂〜

  巨福呂坂は、朝夷奈切通の掘削と同じ時期に、三代執権北条泰時よって改修されたと伝えられている。

 鶴岡八幡宮の西側から山の尾根を越え、圓應寺を経て建長寺へと出る道で、鎌倉七口に数えられている古道。

 現在では、青梅聖天辺りにその面影が残っているのみとなった。


北鎌倉隧道
リンクボタン四角四境祭
(写真は北鎌倉隧道)


 『吾妻鏡』によると、1235年(嘉禎元年)、四代将軍藤原(九条)頼経が疱瘡にかかった際に「四角四境祭」(陰陽道に基づく除災の儀式)が行われた。

 四境とは、鎌倉の境界(鎌倉の外側)のことで、このときは、巨福呂坂・小坪・六浦・片瀬を四境として儀式が行われ、『吾妻鏡』に「巨福呂坂」という地名がはじめて登場している(参考:鎌倉の境界(稲瀬川))。


鎌倉の四角四境祭(okadoのブログ)



青梅聖天庚申塔
旧巨福呂坂の庚申塔









〜青梅聖天の御神体「歓喜天像」〜

 青梅聖天の歓喜天像は、鎌倉市の指定文化財で南北朝時代の作と伝えられ、現在は鎌倉国宝館に寄託されている。

 歓喜天(大聖歓喜自在天)は、仏教の守護神で、象の頭に人の体という姿をしており、青梅聖天の歓喜天は男女の像が抱き合う形となっている(双身歓喜天像)。





青梅聖天の梅
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青梅聖天のスイセン
リンクボタンスイセン





青梅聖天
青梅聖天

 巨福呂坂一帯は、巨福呂谷と呼ばれ、建長寺の山号「巨福山」は、これに由来している。

 『一遍上人絵伝』には、時宗開祖の一遍が巨福呂坂を抜けて鎌倉に入ろうとしたのを、八代執権北条時宗に阻止されたときの様子が描かれている(参考:光照寺 一遍上人地蔵堂跡)。

 『太平記』には、1333年(元弘3年)、倒幕の兵を挙げた新田義貞が、鎌倉を攻める際に、軍勢を三方に分け、堀口貞満を大将とする軍勢を巨福呂坂へ差し向けたことが記されている。

 鎌倉幕府は稲村ヶ崎を突破した義貞に滅ぼされている。



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青梅聖天社

鎌倉市雪ノ下2−6

鎌倉駅東口から徒歩15分


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