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朝夷奈切通は、鎌倉と金沢(六浦)を結ぶ切通。 鎌倉七口の一つ。 和田義盛の三男で、豪傑で知られた朝比奈三郎義秀が一夜にして開いたとの伝承があり、そのため朝比奈峠の名が現在も残っている。 実際は、1241年(仁治2年)に三代執権北条泰時が開いた道。 六浦からの塩がこの道を通って鎌倉に運ばれたことから「塩の道」とも呼ばれ、鎌倉側の入口には、鎌倉五名水の一つ梶原太刀洗水がある。 |
巴塚 (大津:義仲寺) |
善栄寺 (小田原) |
木曽義仲の妾巴御前は、義仲滅亡後、和田義盛の妻となって朝比奈三郎義秀を産んだという説がある。 滋賀県大津市の義仲寺は、巴御前が木曽義仲の墓所の近くに草庵を結んで供養したことにはじまると伝えられる。 小田原の善栄寺は、巴御前が木曽義仲と和田義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられる。 |
鎌倉の古道 鎌倉七口 鎌倉七口MAP |
地蔵尊 (金沢街道沿い) |
切通庚申塚 |
聖観音のやぐら |
梶原太刀洗水 (鎌倉五名水) |
梶原太刀洗水は、梶原景時が太刀の血を洗い流したという湧き水。 |
1240年(仁治元年)11月、幕府は、鎌倉と六浦を結ぶ往環路を造ることを決定し、翌年4月5日に工事が着手された。 三代執権北条泰時自らが工事を指揮したと伝えられている。 難工事であったため、工事が進まず、泰時は自分の馬で土石を運び人夫を励ましたという。 切通を整備する理由の一つに「塩の道」を造る必要があったことがあげられる。 鎌倉の海は塩田にはむかなかったことから、六浦から塩を運搬する必要があった。 朝夷奈切通が、重要な「塩の道」であったことを示すものとして、光触寺の「塩嘗地蔵」の伝説がある。 |
朝夷奈切通は、物資輸送の他に、鎌倉東部の守る城郭としての性格ももっていたと考えられている。 切通は、鎌倉への出入口であるとともに外部からの攻撃に対する重要な防禦拠点であった。 |
1337年(建武4年)、足利尊氏から京を奪還するため、陸奥から西上してきた北畠顕家は、朝夷奈切通を突破し鎌倉に入り、斯波家長の守る杉本城を落として鎌倉を攻略した(参考:北畠顕家の鎌倉攻め)。 |
鎌倉側入口 |
六浦側入口 |
鎌倉駅から「太刀洗」または「金沢八景駅」行バス「十二所神社」下車 |
京急・金沢シーサイドライン「金沢八景駅」から神奈川中央交通バス「大船駅」「上郷ネオポリス」「庄戸」行で「朝比奈」下車 または京急バス「金沢八景」から「鎌倉駅」行で「朝比奈」下車 |
上総介塔 |
鼻欠地蔵 |
上総介塔は、景時に暗殺された上総広常の墓と伝えられる五輪塔。 鼻欠地蔵は、朝比奈のバス通りにある磨崖仏。 |
六浦道その1(筋違橋〜光触寺) 六浦道その2(朝夷奈切通) 六浦道その3(上総介塔〜瀬戸神社) 静寂の熊野神社から十二所果樹園を経て光触寺へ |
鎌倉七口をはじめとする古道を紹介。 神社・仏閣巡りとは違う新たな鎌倉を発見できるかも・・・。 |
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