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杉本寺の観音堂の上は杉本城址。 杉本城は、三浦義明の長男杉本義宗によって築かれたとされ、六浦道を抑える要衝だった。 1337年(建武4年)、後醍醐天皇の命を受けて西上する途中の北畠顕家は、朝夷奈切通から鎌倉に入り、斯波家長の守る杉本城を攻めて落城させた。 観音堂横の五輪塔群は、北畠顕家の鎌倉攻めによって戦死した者の供養塔といわれている。 この戦いで、家長以下300人が杉本城で自刃したのだという。 |
※ | 北畠顕家の鎌倉攻めには、新田義貞の次男・義興や北条高時の次男・時行が合流している。 |
杉本義宗は、三浦義明の長男。 若くして亡くなったことから三浦家は弟の義澄が継いだ。 義宗の長男義盛は和田を本拠として「和田氏」を名乗り、三浦半島の東部を開拓し、源頼朝が鎌倉に入ると侍所別当に任じられている(参考:和田の里(三浦市初音町))。 |
義宗の死後、杉本城には次男義茂が入った。 源頼朝が挙兵すると三浦氏は石橋山に援軍を派遣するが、義茂はその兵には加わらずに杉本城を守っていた。 その折、三浦の総帥三浦義明の死を招く一大事件が発生した。 石橋山の戦いに間に合わなかった三浦軍が引き上げる際、由比ヶ浜で畠山重忠と遭遇してしまう。 両軍は戦うつもりはなかったのだが、杉本城にいた義茂が重忠を攻めたことから合戦となってしまったのだという(小坪合戦と衣笠合戦)。 結果、義明は衣笠城で最期を遂げる(参考:来迎寺(材木座))。 |
杉本義宗に放たれた矢を受けたという伝説の地蔵。 |
石橋山の戦いと衣笠合戦〜三浦義明の討死〜(okadoのブログ) 鎌倉最古の杉本寺と杉本城址(okadoのブログ) |
杉本寺は鎌倉最古の寺。 坂東観音巡礼・鎌倉観音巡礼の第一番札所。 裏山には、杉本義宗によって築かれた杉本城があった。 |
鎌倉市二階堂903 0467(22)3463 鎌倉駅から金沢八景・大刀洗行・ハイランド循環バス 「杉本観音」下車 |
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