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三浦市初音町は、和田義盛が開拓した「和田の里」。 義盛は、ここを拠点に活躍し、鎌倉幕府草創に大きな役割を果たした。 |
和田城は、源頼朝から幕府の侍所の別当に任じられた和田義盛の居城。 義盛は、頼朝が頼りにしていた三浦一族の総帥・三浦義明の孫で、三浦半島の和田を開拓した「一所懸命」の農場主。 当時の武士には、自らが農地を開拓し、その農地を守るという基本がある。 「一所懸命」とは、自ら開拓した農地を守るということ。 三浦一族は、坂東武士としての誇りを現代にも伝える武士団。 鎌倉幕府は、三浦一族がいなければ成立していなかったといっても過言ではない。 義盛の和田城は、和田長浜海岸の近くにあったと考えられるが、現在は石碑があるのみ。 |
和田義盛の父は、杉本義宗。 義宗は、三浦義明の長男で、鎌倉に杉本城を築き、敵対する大庭や梶原の領地に接する最前線を任されていた。 しかし、安房の安西氏への援軍のため出陣したときに負った傷がもとで若くして亡くなったといわれている。 父義宗死後、杉本城を弟義茂に任せた義盛は、三浦半島東部の和田を開拓し、その勢力を伸ばした。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵するとそれに従い、鎌倉幕府の侍所別当として、幕府の発展に尽くした。 頼朝死後の1213年(建暦3年)、北条義時と対立し、鎌倉の由比ヶ浜で最期を遂げている。 |
和田義盛の碑は、1921年(大正10年)に義盛の武勇をたたえて八雲神社に建立された。 |
杉本城址 (鎌倉市) |
和田塚 (義盛滅亡の地) |
白旗神社は義盛を偲んで創建された社。 |
天養院の本尊は、義盛の守護仏だったのだという。 |
来福寺は、鎌倉の名越に創建されたという義盛の菩提寺。 和田合戦後、初声町に移され、さらに江戸時代に南下浦町に移されたのだという。 |
日蓮の弟子日範が居を構えて荒行を行ったという洞窟。 |
京急「三崎口駅」よりバス 「和田」バス停下車 |
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