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和田義盛は、相模国三浦郡和田の里を本拠とした武将。 三浦氏の氏族で、父は杉本義宗(三浦義明の長男)。 1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、三浦一族とともに石橋山へと駆けつけるが間に合わず、引き上げる途中の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠と合戦となり、総帥の三浦義明を失った(小坪・衣笠合戦)。 三浦氏の当主義澄らとともに衣笠城を落ちた義盛は、安房国へと渡って頼朝と合流し、10月7日に鎌倉入りを果たす。 |
高望王流桓武平氏 |
三浦義明墓 (鎌倉来迎寺) |
三浦義明墓 (横須賀満昌寺) |
住吉神社 (横須賀市) |
光念寺 (三浦市) |
三浦一族が安房国へと船出したのは久里浜。 住吉神社は一族が祈願した社。 光念寺には船出した義盛らを助けた龍神の伝説が残されている。 |
10月20日、富士川の戦いで平家軍を敗走させ、11月には佐竹征伐を行ない関東を固めた頼朝は、11月17日、義盛を侍所の別当に任命。 12月12日には、完成した新亭(御所)に頼朝が入り、御家人311人が着座。 その中央にいたのが義盛だった。 源平合戦では、1184年(元暦元年)、源範頼に従って出陣し、翌年、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした。 1189年(文治5年)、奥州平泉で自刃した源義経の首を、腰越の浜で実検したのは義盛と梶原景時だった。 この年の奥州征伐にも出陣している。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、1月20日には嫡男の頼家が家督を相続するが、4月12日になると頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定される。 義盛もその一人に加わった。 この年に起こった梶原景時の変では、大江広元に詰め寄って弾劾状を強引に頼家に提出させ、景時を鎌倉から追放。 翌年正月、景時は駿河国で討たれている。 1203年(建仁3年)の比企能員の変では、頼家から北条時政追討を命じられるが、義盛はそれを時政に報告し、頼家を失脚させた。 1213年(建暦3年)、泉親衡の謀反をきっかけに北条義時打倒の兵を挙げたが、5月3日、由比ヶ浜で討死(享年67)。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) |
義盛は、三浦半島の和田(現在の三浦市初声町)の地を開拓した。 |
白旗神社 (三浦市) |
天養院 (三浦市) |
和田の里には、義盛を偲んで創建されたという白旗神社や、義盛の守護仏を祀る天養院がある。 |
来福寺は、鎌倉の名越に創建されたという義盛の菩提寺。 |
浄楽寺は義盛の創建。 阿弥陀三尊像・木造不動明王・毘沙門天立像は、義盛の発願によって運慶が造立したもの(重要文化財)。 |
義盛が運慶に造仏を依頼した理由には、伊豆に願成就院を建立した北条時政への対抗心があったといわれている。 願成就院の阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像も運慶の真作で国宝に指定されている。 |
浄楽寺の近くにある無量寺も義盛の創建。 本尊の阿弥陀如来は運慶が造立したものだったのだという。 |
『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)、石橋山の戦いの後、安房国へ渡って頼朝と合流した義盛は、今後どうなるかわからない状況下で、頼朝に侍所の別当にしてくれるよう頼んでいたのだという。 |
頼朝の鎌倉入り 新亭完成・鎌倉殿と武家の都の誕生 東国の主君「鎌倉殿」 |
〜源平の戦いの途中で鎌倉に帰ろうとした侍所別当〜 |
1184年(元暦元年)8月8日、源範頼が平家追討のため西海へ出陣。 北条義時・足利義兼・武田有義・千葉常胤・ 三浦義澄・八田知家・葛西清重・結城朝光・比企能員・和田義盛など一千騎。 稲瀬川で頼朝に見送られての出陣だった。 9月には京を発ち、兵糧の調達に苦労しながら、翌年正月になって長門国に到達。 しかし、食糧はなく、船もなく、長期化する戦に士気は衰え、義盛は侍所の別当でありながら「関東に帰りたい」などと言い出す始末だったのだとか・・・ |
『吾妻鏡』によると、1192年(建久3年)、梶原景時に「一日だけその名を貸してくれ」と頼まれ、喪に服さなけれならない理由のあった義盛は、それを許したが、そのまま別当職を景時に奪われてしまったのだとか・・・ ただ、御家人間の話で幕府の重職を決められるはずがなく、景時が別当となったのは、頼朝の意向だったと考えるのが妥当なのかもしれない。 梶原景時の変後、別当に復職している。 |
1203年(建仁3年)9月2日、源頼家が危篤状態の中、北条時政が天野遠景と仁田忠常に命じて頼家の乳母夫だった比企能員を暗殺。 一方で、北条政子の命を受けた北条義時らが比企邸を攻め、比企氏を滅亡させた(比企能員の変)。 比企討伐には義盛も参加している。 9月5日、危篤状態から回復して事件を知った頼家は、義盛と忠常に時政を討つよう命じた書状を送るが、義盛はそれを時政に報告。 書状を届けた堀親家は捕えられて誅殺され、翌日には忠常が時政邸に呼び出され、その帰りに加藤景廉に誅された。 9月7日、頼家は出家。 9月29日には修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されている。 |
「生涯のうちで心残りなのはこの一つだけ」として、1209年(承元3年)5月23日に大江広元に上総介任官の嘆願書を提出。 しかし、藤原秀康が任命されたため、1211年(建暦元年)12月20日、嘆願書を取り下げている。 北条義時に対抗できる地位が望みだったと考えられるが、叶えられなかった。 |
上総介の任官を望んでいた和田義盛 |
1213年(建暦3年)5月2日、北条義時打倒の兵を挙げた義盛。 一族の三浦義村は、起請文まで書いて味方することを約束していたというが、挙兵を義時に報告。 のちに千葉胤綱から「三浦の犬は友をも食らう」と言われたらしい。 |
泉親衡の乱から和田義盛の挙兵まで〜和田合戦『吾妻鏡』〜 『吾妻鏡』が伝える和田合戦 挙兵を早めた和田義盛 (三浦義村の裏切りで計画が狂った和田合戦) |
巴御前は、木曽義仲の妾で平家討伐に従軍した女武者として知られている。 伝説によると、義盛は頼朝に願い出て巴を娶り、二人の間に誕生したのが和田合戦でその名を轟かせた朝比奈義秀なのだとか。 |
小田原市栢山の善栄寺は、巴御前が木曽義仲と義盛の菩提を弔うために創建したと伝えられている。 |
横須賀市秋谷の正行院は、義盛が巴御前の菩提寺として創建したことに始まるのだと伝えられている。 |
「太刀 銘有綱」は、巴御前が帯びていたと伝えられている太刀(個人蔵)。 |
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