|
比企氏は、武蔵国比企郡を領した豪族。 藤原秀郷の末裔とも。 比企掃部允の妻比企尼は源頼朝の乳母。 比企能員(ひきよしかず)は、尼の猶子(甥)。 |
1182年(寿永元年)8月12日、北条政子が比企邸で長男万寿(のちの二代将軍源頼家)を出産。 能員は乳母父に選ばれ、最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、梶原景時の妻、比企尼の三女(平賀義信室)、能員の妻が頼家の乳母となっている。 1198年(建久9年)、頼家の側室となった娘の若狭局が一幡を出産。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、頼家が家督を相続するが、同年4月12日、頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定されると能員もその一人に加わった。 同年10月の梶原景時の弾劾では、能員も弾劾状の署名・血判に加わり、景時を滅亡に追い込んだ(梶原景時の変)。 1203年(建仁3年)7月に頼家が重病となり、危篤状態に陥ると北条氏と対立。 9月2日、北条時政に自邸(名越亭)に誘き出された能員は天野遠景と仁田忠常に暗殺され、政子の命を受けた北条義時らに比企邸が攻められ比企一族は滅亡した(比企能員の変)。 |
鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉に迎え入れた。 『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)6月16日、比企尼から「木陰が涼しく、瓜が食べごろです」と誘われた頼朝は、北条政子とともに尼邸を訪問。 1187年(文治3年)9月9日には、白菊の咲いた比企尼邸で重陽の節句を祝うため、政子や三浦義澄などを引き連れて訪問している。 妙本寺は、比企邸跡に建てられた寺院。 |
比企一族供養塔 |
一幡袖塚 |
北条軍らに攻められた比企一族は、頼家の嫡男一幡の小御所で自刃。 一幡もその難を逃れることは出来なかった。 |
蛇苦止ノ井 |
蛇苦止明神 |
蛇苦止ノ井は、比企能員の変で若狭局が身を投じたと伝えられている井戸。 蛇苦止明神には若狭局が祀られている。 |
比企能員を源頼家の乳母夫に推挙〜比企尼の逸話〜 比企能員の変 (比企一族の滅亡) 北条義時の正妻:姫の前 (比企朝宗の娘) 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
仙覚律師は、万葉集の研究で知られる僧で、母は能員の内室とも伝えられている。 |
東松山市の宗悟寺は、比企能員が領した武蔵国比企郡の館跡といわれる地にある寺院。 能員の娘で二代将軍源頼家の側室だった若狭局が建てた壽昌寺を始まりとしているのだという。 境内には比企一族顕彰碑が建てられている。 |
東松山市の正法寺(岩殿観音)は、源頼朝の命で比企能員が復興したという寺院。 |
|