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宗悟寺は、鎌倉幕府二代将軍源頼家の側室若狭局が、伊豆の修禅寺で暗殺された頼家の追福のため比丘尼山に建立した壽昌寺を始まりとしているのだと伝えられている。 若狭局は、1203年(建仁3年)に北条時政に滅ぼされ比企能員の娘。 宗悟寺の周辺が能員の館跡だったとされている。 1592年(文禄元年)、武蔵国比企郡を与えられた森川氏俊が比丘尼山の壽昌寺を現在地に移して再興し、宗悟寺と改めて菩提寺としたのだと伝えられている。 頼家の位牌や蛇苦止観音像が残されている。 蛇苦止観音は、頼家を失った若狭局が蛇に巻き付かれたような苦しみを鎮めるために作ったものなのだという。 |
比企氏は武蔵国比企郡を領した豪族。 藤原秀郷の末裔なのだという。 『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝の乳母を務めた比企尼の夫比企掃部允(かもんのじょう:実名は不明)は、1160年(永暦元年)に頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に配流となると、妻とともに京都から領地に下向。 比企尼は伊豆国で約20年を過ごした頼朝に仕送りを続けていたのだという。 |
※ | 比企掃部允は、1180年(治承4年)に頼朝が源氏再興の挙兵をする前に亡くなっている。 |
1182年(寿永元年)、北条政子が鎌倉の比企邸で頼家を出産すると、比企尼の甥比企能員が乳母夫に就任。 比企尼が能員を猶子として頼朝に推挙したのだと伝えられている。 1198年(建久9年)、頼家の側室となった能員の娘若狭局が一幡を出産(『吾妻鏡』欠落のため詳細は不明)。 将軍外戚として権勢を強めていた能員だったが、北条氏と対立し、1203年(建仁3年)9月2日、能員は北条時政に暗殺され、一族も北条義時らによって滅ぼされた(比企能員の変)。 将軍頼家は出家させられて伊豆の修禅寺に幽閉された後、翌年7月18日、北条氏によって暗殺されている。 東松山市の伝承によると・・・ 頼家が修禅寺に幽閉されると、比企能員の変で生き残った若狭局は伊豆へ赴き、頼家が暗殺されると位牌を持って比企の地に逃げてきたのだという。 |
慈円の愚管抄が伝える比企能員の変 『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺 『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期 |
妙本寺 (鎌倉市) |
源頼家の墓 (修禅寺) |
源頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉の比企ヶ谷に迎え入れた。 鎌倉の妙本寺は比企邸跡に建てられた寺で、総門前には「比企能員邸跡」の石碑が建てられている。 |
比企尼は、夫比企掃部允が亡くなると比丘尼山に草庵を営んだのだという。 また、若狭局は、この山の麓に頼家を弔うための寿昌寺を建立したのだと伝えられる。 |
頼家への思いを断ち切れない若狭局は、比企尼に諭されて形見の櫛を串引沼に捨てたのだとか・・・ |
東松山市岩殿の正法寺(岩殿観音)は、源頼朝の命で比企能員が復興したという寺院。 |
東松山市の伝説では、若狭局は武蔵国比企郡で源頼家の菩提を弔ったとされるが、『吾妻鏡』の記事からすると、比企能員の変で死んだと考えられる(頼家より先に没している。)。 |
1260年(文応元年)、北条政村(のちの七代執権)の娘は、比企ヶ谷の土中にいるという若狭局に祟られて、蛇のような狂態を見せるようになった。 鶴岡八幡宮の隆弁による加持祈祷によって快復したが、政村は比企邸跡に若狭局を祀る蛇苦止明神を建立したのだという。 |
埼玉県東松山市大字大谷400 東松山駅から市内循環バス「大谷交差点」下車、徒歩10分 ※バスの本数が少ないので注意 |
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