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比企一族の供養塔
〜鎌倉:妙本寺〜

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比企一族の供養塔


 『吾妻鏡』によれば、源頼朝の乳母を務めた比企禅尼は、1159年(平治元年)の「平治の乱」に敗れ、翌年伊豆国に流された頼朝を支え続け、1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵を果たすまでの約20年の間、仕送りを続けていたという。

 そのため、比企禅尼の養子比企能員(ひきよしかず)は、頼朝の信任が厚く、二代将軍頼家の乳母夫となり、さらに娘の若狭局が頼家の側室となって一幡を出産するなど権力をつけ、北条氏と並ぶ存在となった。

 しかし、1203年(建仁3年)9月2日、比企能員北条時政によって暗殺され、比企一族も北条義時らによって攻められ滅亡した。

 妙本寺祖師堂横には比企一族の供養塔が建てられている。



比企一族の供養塔


 四基の五輪塔の両脇に建てられている石塔には、それぞれ「本行院日学聖人」「輪成院日教聖人」と刻まれている。

 「本行院日学聖人」は、比企能員の末子能本のことで、妙本寺の開基。

 「輪成院日教聖人」は、祖師堂を再建した四十七代目の住職。









比企能員邸址碑
総門前の石碑


 鎌倉に武家の都を創った源頼朝は、武蔵国比企郡から比企禅尼を鎌倉へ招いて住まわせた。

 その場所が妙本寺のある比企ヶ谷。

 現在の祖師堂の辺りに比企禅尼の屋敷があったのだと伝えられている。



比丘尼山
リンクボタン比丘尼山
(東松山市)

 東松山市は比企能員が領した武蔵国比企郡の一部。

 比企禅尼は、夫の比企掃部允が亡くなると比丘尼山に草庵を営んでいたのだという。


リンクボタン比企能員を源頼家の乳母夫に推挙〜比企尼の逸話〜





〜比企氏の滅亡〜

 源頼朝が亡くなると二代将軍には長男の頼家が就任した。

 比企館で誕生した頼家は、能員の妻を乳母とし、さらに、能員の娘若狭局を側室としたことにより、母北条政子やその実家である北条氏より比企氏を頼りとしていた。

 『吾妻鏡』は、伊豆のころより頼朝に仕えていた安達盛長の息子景盛の嫁を横取りしたり、蹴鞠に夢中になるなどの乱行もあったと伝えている。


 リンクボタン安達景盛の妾を奪った源頼家


 1203年(建仁2年)、頼家が病気(危篤状態だったといわれる。)になると、北条時政政子は、頼家の弟実朝を将軍職に据える画策をした上で、能員を時政邸におびき出し、天野遠景仁田忠常に命じて能員を暗殺、時政の子義時らは比企館を攻めて一族を滅亡させた。

 病から癒えた頼家は、頼みの比企一族を滅ぼされた上、将軍職まで失ってしまう。

 時政らは、頼家を伊豆修禅寺に幽閉し、のちに暗殺した。

 頼家の嫡子一幡は、比企一族とともに焼け死んだと伝えられる。



一幡の袖塚
リンクボタン一幡袖塚
(妙本寺)


源頼家の墓
リンクボタン源頼家の墓
(修禅寺)


比企氏の乱


リンクボタン慈円の愚管抄が伝える比企能員の変

リンクボタン『吾妻鏡』が伝える比企能員暗殺

リンクボタン『吾妻鏡』が伝える比企一族の最期

リンクボタン鶴岡八幡宮の巫女の予言から始まった!〜吾妻鏡の物語と比企能員の変〜

リンクボタン乳母制度が生んだ権力闘争〜頼朝・頼家・実朝の乳母〜

リンクボタン仁田忠常の誅殺









妙本寺蛇苦止明神
リンクボタン蛇苦止堂
(妙本寺)

 蛇苦止堂には、比企能員の変で井戸に身を投じたという若狭局が祀られている。

 ただ、慈円の『愚管抄』は、若狭局は子の一幡とともに逃げ延びたと伝えている。

 一幡は北条義時に殺されてしまったようだが、若狭局は・・・


宗悟寺
リンクボタン宗悟寺
(東松山市)
串引沼
リンクボタン串引沼
(東松山市)

 東松山市は、比企能員が領した武蔵国比企郡の一部。

 能員の館跡に建てられているという宗悟寺は、若狭局が源頼家の菩提を弔うために建てた壽昌寺を始まりとするとされ、近くの串引沼は若狭局が頼家の形見の櫛を捨てた沼だと伝えられている。

 東松山市の伝説によると、若狭局は比企の乱後も生存していたこととなる。


リンクボタン慈円の愚管抄が伝える比企能員の変





〜北条時政邸跡と比企一族の墓〜

 妙本寺を建てた比企能本は、四代将軍藤原(九条)頼経に頼んで、北条時政邸の跡を一族の墓所としたという説がある。

 そこが安国論寺のある場所であるといわれているが定かではない。

 安国論寺の寺伝では、日朗が庵を営むに当たって、安国論寺の墓所が妙本寺に移されたとされているらしい。

 この説が正しいとすると北条時政邸(名越亭)は、安国論寺のある場所にあったことになる。

 これまで、釈迦堂切通の東側、衣張山西側中腹の遺跡が「北条時政邸跡」とされてきたが、平成20年の発掘調査で「北条時政邸跡」ではなかったことが判明しているだけに興味のある説である。



比企一族の供養塔





〜比企時員の妻と子〜

 比企時員は、比企能員の子。

 二代将軍源頼家の近習として仕え、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される五人のうちの一人となった。

 1203年(建仁3年)の比企能員の変で討死するが、妻は正法寺(岩殿観音)に落ち延び、男児を出産したのだと伝えられている。

 翌年、妻は一族の冥福を祈るため西国巡礼の旅に出たが、男児は寺で育てられて員茂を名乗り、のちに北面の武士となり、1221年(承久3年)の承久の乱では、流罪となった順徳上皇に従って佐渡に渡ったのだという。

 その後、子の員長とともに比企郡中山(現在の川島町)に移り住んだのだと伝えられている。



岩殿観音
リンクボタン岩殿観音
(東松山市)








歴史めぐり源頼朝




妙本寺
リンクボタン妙本寺

 妙本寺は、源頼朝の御家人比企能員の邸跡に能員の末子能本が建てた寺。
 この地で有力御家人比企氏が滅亡し、二代将軍源頼家の嫡子一幡が焼け死んだ(参考:比企氏の乱)。


鎌倉市大町1−15−1
0467(22)0777

鎌倉駅東口から徒歩8分



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