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慈円(じえん)は、平安末期から鎌倉初期の天台宗の僧。 歴史書の『愚管抄』の作者として知られる。 父は摂政関白・藤原忠通。 母は藤原仲光の娘加賀局。 源頼朝の支持のもとで摂政・関白に昇った九条兼実は同母兄。 1192年(建久3年)、天台座主(延暦寺の貫主)となる。 この年、後白河法皇が崩御。 兄兼実は関白に昇り、頼朝は征夷大将軍に任じられている。 1196年(建久7年)の政変で兄の兼実は失脚するが、後鳥羽上皇の信任が厚かった慈円は、1221年(承久3年)の承久の乱の頃まで、朝廷のための祈祷を行った。 晩年は、四天王寺の復興や比叡山の興隆のために尽くし、1225年(嘉禄元年)9月25日に没している(71歳)。 |
※ | 天台座主は辞退と復帰を繰り返し、その補任は四度に及んでいる。 |
歌詠みの社会でも活躍した慈円。 1195年(建久6年)、頼朝が東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛すると、内裏や六波羅で対面して交流を深めたのだという。 「思ふこと いな陸奥の えぞいはぬ 壷のいしぶみ 書き尽くさねば」 慈円が頼朝に贈った歌。 そして頼朝が返した歌は 「みちのくの いはでしのぶは えぞ知らぬ 書きつくしてよ 壷のいしぶみ」 この頼朝の歌は、後鳥羽上皇が編纂させた『新古今和歌集』に載せられている。 意気投合した頼朝と慈円は、七十首もの和歌の贈答を行なったのだとか。 参考までに、『新古今和歌集』に収められた慈円の歌は92首、頼朝は2首。 |
1219年(建保7年)正月、三代将軍の源実朝が暗殺されると、四代将軍として九条道家の子頼経が下向する。 九条道家は兄兼実の孫。 公武の融和を理想としていた慈円は、頼経の下向を喜んでいたようだが・・・ 幕府と後鳥羽上皇の関係は崩壊。 後鳥羽上皇の挙兵を諫めるために書かれたのが『愚管抄』といわれる。 神武天皇からの歴史をたどり、道理に基づいた国のあるべき姿を明らかにしようとしたのだという。 しかし、1221年(承久3年)、後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を発して挙兵(承久の乱)。 戦いは幕府方の勝利に終わり、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇は配流となり、合戦の張本とされた五人の公卿が処罰された。 後鳥羽上皇の挙兵に加わらなかった九条道家も摂政を罷免され、順徳上皇の子で道家の甥だった仲恭天皇も廃位となった。 晩年の慈円は、仲恭天皇の復位・隠岐に流された後鳥羽院の帰洛・摂政道家の還補・頼経の将軍就任と無事の成人を願い、四天王寺の聖霊院の聖徳太子像に願文を奉っている。 |
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