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六波羅は鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。 空也が建てた西光寺が六波羅蜜寺と改名されたことにより、「六波羅」という地名になったのだという。 平安後期には、伊勢平氏の平正盛が六道珍皇寺付近に邸宅を構えて供養堂を建立し、その子忠盛は六波羅館を置いて伊勢平氏の拠点とした。 忠盛の子清盛の代には、伊勢平氏の繁栄は最盛期となり、六波羅館は清盛の邸宅「泉殿」(いずみどの)を中心に一族の邸宅が建ち並ぶが・・・ 1183年(寿永2年)7月25日、平家一門は都落ち。 六波羅館は一門の手で焼き払われた。 その後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、1185年(文治元年)には北条時政が京都守護に任命され庁舎が置かれる。 以後、東国武士の拠点となった。 1221年(承久3年)の承久の乱後には、六波羅探題が設置され、周辺には探題に仕える武士の邸宅や、将軍上洛の際の御所も設置されていた。 1333年(元弘3年)5月7日、六波羅探題は足利尊氏らに攻められ陥落。 室町幕府は洛中を拠点としたため、六波羅は信仰の地としての趣を取り戻していったのだという。 |
建仁寺勅使門 |
東福寺六波羅門 |
建仁寺の勅使門は、平教盛の館門(平重盛の館門とも)を移築したものと伝えられる。 東福寺の六波羅門は、六波羅探題にあったものが移築されたと伝えられている。 |
蓮華寺は、1333年(元弘3年)、足利尊氏らに攻められ陥落した六波羅探題北方の北条仲時をはじめとする140余名が自刃した地。 |
六波羅蜜寺付近は、鳥辺野(とりべの)という葬送地の入口に位置していたことから、「六道の辻」と呼ばれ、近くには、あの世とこの世の境目に建つという「六道珍皇寺」や六道の辻地蔵尊と呼ばれる「西福寺」がある。 |
1000年(長保2年)12月16日に崩御した一条天皇の皇后・藤原定子の遺体は、23日に六波羅蜜寺へ運ばれ、27日に鳥戸野陵へ葬られている。 |
阿古屋塚 |
平清盛塚 |
六波羅蜜寺の阿古屋塚は、悪七兵衛と呼ばれた平景清の思い人で、五条坂の白拍子だった阿古屋の菩提を弔うためのもの。 平治の乱で源義朝を破って武家政権樹立の基礎を築きあげた平清盛は、九条河原の平盛国邸(清盛の側近)で亡くなった。 |
六波羅蜜寺は、空也上人によって開かれた西光寺を前身としている寺。 平安時代後期には、平清盛をはじめとする平家一門の屋敷が建ち並んでいた。 |
京都市東山区松原通大和大路東入2丁目轆轤町 京阪「清水五条駅」から徒歩5分 JR京都駅から市内循環バス「清水道」下車徒歩5分。 |
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