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一条天皇(いちじょう てんのう)は、円融天皇の第一皇子。 980年(天元3年)6月1日誕生。 母は藤原兼家の娘・藤原詮子(東三条院)。 諱は懐仁(やすひと)。 乳母は藤原兼家の妹・繁子、藤原有国の妻・橘徳子など。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 藤原詮子は、東三条院で一条天皇を産み、一条天皇の即位後は東三条院と呼ばれた。 |
984年(永観2年)8月27日、従兄弟の花山天皇が即位すると皇太子となり、986年(寛和2年)6月23日、花山天皇の出家(寛和の変)に伴なって即位(7歳)。 外祖父の藤原兼家が摂政となった。 |
両統迭立の皇位継承~冷泉系と円融系~ 摂政・関白と摂関政治(藤原氏の政治) |
花山天皇が東宮(皇太子)の時から教育係として仕えていた紫式部の父・藤原為時は、寛和の変によって官職のない「散位」の時代を十数ほど過ごすこととなる。 |
花山天皇と藤原為時~師貞親王の教育係と藤原兼家・藤原道兼~ |
北野天満宮は菅原道真を祀る社。 987年(永延元年)には、一条天皇の勅使が派遣され、「北野天満宮天神」の神号が与えられた。 |
花山稲荷神社は、醍醐天皇の勅命で建てられたという社。 988年(永延2年)、一条天皇が社殿を再建。 |
991年(正暦2年)、一条天皇の勅命により近江国の八幡山(法華峰)に宇佐神宮を勧請(日牟禮八幡宮)。 |
晴明神社は安倍晴明を祀る社。 1007年(寛弘4年)、晴明の偉業を讃えるため一条天皇が創建。 |
晴明は、1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没したといわれ、嵯峨に葬られたのだと伝えられている。 墓所では、命日には嵯峨墓所祭が斎行されている。 |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
春日大社は藤原氏の氏神。 989年(永祚元年)、一条天皇は藤原兼家と生母・詮子の望みで行幸している。 |
吉田神社は、平安京の守護神として藤原山蔭が春日大社を勧請して創建した社。 山蔭の孫の時姫は藤原兼家の正妻で、詮子は時姫が産んだ子。 詮子が産んだ一条天皇が即位すると大原野神社と並んで崇敬されるようになる。 藤原道長の法成寺と吉田神社を崇めることは興福寺と春日大社を崇めるのと同じともいわれたらしい。 |
990年(正暦元年)1月、兼家のあとに関白となった藤原道隆の娘・藤原定子が入内し、10月には皇后となって中宮を称する。 995年(長徳元年)4月、道隆が死去し、同年5月には関白の地位を継承した道兼が死去。 その後、権力の座に就いたのは、道隆と道兼の弟・藤原道長。 999年(長保元年)、道長は娘の藤原彰子を入内させ、翌年には皇后とする。 これにより、定子は皇后宮、彰子は中宮と呼ばれるようになる。 以後、皇后の定員は2名となった(一帝二后)。 道長に彰子の入内を勧めたのは、一条天皇の生母・藤原詮子だったのだという。 |
関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~ |
藤原兼家 |
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大原野神社は、春日大社を勧請して創建された社で、藤原氏は女子が中宮や皇后になると行列を整えて参拝することを通例としていた。 彰子の行列は、目がくらむほどきらびやかで美しいものだったと伝えられている。 円融天皇や一条天皇も度々行幸したのだという。 993年(正暦4年)の行幸の際には、関白・藤原道隆をはじめとする藤原氏の公卿ほぼ全員が供奉。 ただ、道隆に不満を持っていた藤原公任は供奉せず勅勘を受けたのだとか。 |
源俊賢~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ 藤原公任~藤原道長に仕えた公卿・一条朝の四納言~ |
一条天皇の時代には疫病が大流行。 今宮神社は、994年(正暦5年)に都で疫病が流行った際に船岡山で「紫野御霊会」 を営んだことに始まる社。 4月に行われる「やすらい祭」は紫野御霊会を起源とし、疫病の根源を疫社に封じ込める祭。 |
999年(長保元年)の祇園御霊会で、雑芸者の無骨が大嘗祭で使われる標山に似せた作山を製作し、八坂社の社頭で引き回した。 藤原道長は禁止令を出したが、祇園天神の怒りにあい、内裏が焼失してしまい、一条天皇は生母・藤原詮子の御在所(一条院)に遷御したのだと伝えられている。 現在の祇園祭の山鉾巡行は、無骨の作山が起源なのだとか。 |
無骨の山鉾を禁止した藤原道長と祇園天神の怒り |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 当時の内裏は、京都御所の西方2㎞の所にあった。 |
一条院は、一条天皇の里内裏として使用された邸宅。 |
八坂神社 |
祇園祭 |
祇園祭は、7月1日から1ヵ月にわたって行われる八坂神社の祭礼。 |
996年(長徳2年)正月28日、紫式部の父・藤原為時は越前守に叙任されて越前国へ下向。 越前には娘の紫式部も同行していたのだという。 ただ、正月25日の除目で越前守に任ぜられたのは源国盛で、為時は淡路守だったらしい。 しかし、藤原道長は国盛を停めて、為時を越前守に任じたのだという。 この前年から、越前国には宋の商人・朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに滞在。 一条天皇と道長は、漢詩に堪能だった為時を越前守にすることで、唐人との交渉を円滑に進めようとしたともいわれる。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。 |
一条天皇の時代は女流文学が花開いた時代。 清少納言は、993年(正暦4年)頃から皇后定子に仕え、紫式部は1005年(寛弘2年)頃に中宮彰子に仕えた。 紫式部と同じ頃、歌人の赤染衛門や和泉式部も彰子に仕えている。 |
「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」 彰子に仕えることになった紫式部が詠んだ歌。 紫式部公園に紫式部歌碑が建てられている。 |
藤原彰子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 紫式部は「源倫子にも仕えていた」という説 中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部(越前市・紫きぶ七橋) |
一条天皇には大切にしていた「命婦の御許」(みょうぶのおとど)と名づけられた飼い猫がいた。 清少納言は『枕草子』にその猫のことを書いている。 |
平等寺の因幡薬師は、一条天皇が信仰した寺。 六猫守りが人気! |
999年(長保元年)11月7日、定子は第一皇子の敦康親王を出産するが・・・ 翌年12月15日、第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御。 |
12月16日の明け方に崩御した定子は、六波羅蜜寺に安置された後、27日、鳥戸野(鳥辺野)へ葬送された。 本人の希望により土葬とされたのだという。 葬儀を取り仕切ったのは、父の道隆に仕えた平惟仲だったのだという。 |
藤原定子の歌~死を悟った一条天皇皇后宮の遺詠の歌・辞世の歌~ 春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~ |
1001年(長保3年)閏12月22日、生母の藤原詮子が崩御。 定子が産んだ媄子内親王を養育していたのだという。 鳥戸野陵で火葬された後、宇治木幡の宇治陵に葬られた。 |
浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に藤原道長が建立した寺。 室町時代に廃絶し、埋葬地も不明。 |
真如堂は、984年(永観2年)、比叡山の戒算が、常行堂の本尊阿弥陀如来を藤原詮子の離宮に安置したのが始まり。 |
真如堂の旧地にある換骨堂(元真如堂)には、藤原詮子の供養塔が建てられている。 |
1008年(寛弘5年)10月12日、彰子が道長の邸宅・土御門殿で第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を出産。 翌年12月14日には、第三皇子・敦良親王(後朱雀天皇)を出産している。 |
土御門第跡 |
枇杷殿跡 |
土御門第(土御門殿)は藤原道長の邸宅。 枇杷殿は、土御門殿の西側にあった御殿で、清少納言や紫式部が出仕していた。 |
金峯山寺 |
金峯神社 |
彰子が敦成親王を産む前年、道長は自ら書写した法華経などを金峯山(山上の蔵王堂)に埋納。 人々は「金峯山の御霊験」と噂したのだとか・・・ 吉野山の金峯神社に伝わる経筒は、金峯山から出土したもので国宝。 2024年(令和6年)には、金峯神社と金峯山寺が所有する道長直筆の「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定された。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 渡殿の紫式部の局の戸をたたく藤原道長(紫きぶ七橋) |
藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ 国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~ 藤原彰子の懐妊と藤原道長の法華三十講と紫式部 藤原彰子の出産~敦成親王誕生:紫式部日記~ 敦成親王誕生5日目の御産養~紫式部日記~ 一条天皇の土御門殿行幸、敦成親王と対面~紫式部日記~ 敦成親王誕生の五十日の祝い~源氏物語初登場の日:紫式部日記~ |
1011年(寛弘8年)6月13日、病床に臥していた一条天皇は、居貞親王(三条天皇)に譲位。 6月19日に出家するが、3日後の6月22日に崩御(宝算32)。 剃髪は定子の弟の隆円が奉仕したのだという。 一条天皇は譲位に当たって、定子が産んだ第一皇子の敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいたが・・・ 藤原行成に彰子が産んだ第二皇子の敦成親王(のちの後一条天皇)を立てるよう進言されて諦めたのだという。 |
東宮になれなかった敦康親王~藤原行成が一条天皇に進言したこと~ 藤原彰子は敦康親王が東宮になることを望んでいた! |
敦康親王の外祖母は高階貴子。 その先祖・高階師尚は、斎宮・恬子内親王と在原業平の密通によって生まれたの子という伝承がある。 敦康親王は、藤原行成の「外戚の高階家は伊勢神宮に憚るところがある」という進言があって、東宮(皇太子)になれなかったのだとか。 |
東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~ |
一条天皇は、鹿苑寺の北の巌陰で火葬されたのだという。 |
一条天皇は、皇后宮だった藤原定子と同じく土葬を望んでいたが、藤原道長は火葬してからその事を思い出したのだという。 7月8日夜に火葬された遺骨は、翌日、東山の円成寺に安置。 遺骨が円融寺に改葬されたのは、1020年(寛仁4年)6月16日のことだった。 円融寺北陵は龍安寺内にある。 |
一条天皇の火葬と埋葬 藤原彰子の歌~撫子を手に取る幼い我が子を見て詠んだ歌~ 一条天皇の遺詠歌と藤原定子の遺詠歌、そして源氏物語 |
石清水八幡宮の一の鳥居の「八幡宮」の額は、一条天皇の勅により藤原行成が書いたものを・・・ のちの1619年(元和5年)、松花堂昭乗が行成の筆跡のとおりに書写したものだという。 |
行願寺(革堂)は、1004年(寛弘元年)、一条天皇の勅願寺として創建された。 |
松尾大社は、上賀茂神社・下鴨神社とともに王城鎮護の神として崇敬された社。 一条天皇は、1004年(寛弘元年)に行幸している。 |
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