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一条天皇に愛された皇后宮・藤原定子は、1000年(長保2年)12月16日に崩御。 『栄花物語』によると・・・ 定子が崩御した後、兄の藤原伊周と弟の藤原隆家は、御帳台の帷子の紐に結びつけられていた和歌三首を見つけている。 |
夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき |
「一晩中契りを交わしたことをお忘れでないなら、私の死んだ後、あなたは泣いてくれるでしょう。 その涙の色が知りたい」 恋い慕っていた一条天皇に贈った歌。 |
知る人も なき別れ路に 今はとて 心ぼそくも 急ぎたつかな |
「誰一人知る人もいない死出の旅に出るのは急な事で心細い」 一条天皇や子たちを残して旅立つ心細さを詠んだ歌。 |
煙とも 雲ともならぬ 身なれども 草葉の露を それとながめよ |
「煙とも雲ともならない我が身ですが、草の葉の露を我が身と思って下さい」 |
定子の陵墓は、鳥戸野陵。 藤原行成の『権記』によると、12月16日に崩御した定子は、六波羅蜜寺に安置された後、12月27日に葬送。 定子の希望により土葬とされたのだという。 歌にある「煙とも雲ともならぬ身」は火葬ではなく土葬されることを意味している。 |
定子の死から11年後の1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇が崩御。 その3日前の出家時に詠んだ歌が・・・ |
露の身の 仮の宿りに 君を置きて 家を出でぬる ことぞ悲しき |
「露のようにはかない身がかりそめ宿る現世に、あなたを残して出家してしまう事は悲しい」 この歌の君とは、中宮・藤原彰子のことと考えられるが、定子のこととする説もある。 |
一条天皇は、定子と同じ土葬を望んでいたが・・・ 藤原道長は火葬を終えてからその事を思い出したのだという。 遺骨は東山の円成寺に安置された後、1020年(寛仁4年)6月16日に円融寺に改装された。 一条天皇の円融寺陵は龍安寺内にある。 |
一条天皇の遺詠歌と藤原定子の遺詠歌、そして源氏物語 |
清少納言歌碑 (泉涌寺) |
今熊野観音寺 |
定子の教育係として仕えた清少納言は、晩年、定子の眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。 東山月輪に建てられた泉涌寺には清少納言歌碑が建てられている。 清少納言の父・清原元輔の邸宅は、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近にあったといわれる。 |
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