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泉涌寺は、825年(斉衡2年)、左大臣藤原緒嗣が創建した法輪寺を起源とし、仙遊寺と改名された後、1218年(建保6年)に月輪大師(俊芿・しゅんじょう)が宇都宮信房から仙遊寺の旧地の寄進を受け、1226年(嘉禄2年)に伽藍の完成をみた。 その間、寺地の一角から清泉が湧き出したことにより泉涌寺と改められている。 月輪大師に寺を寄進した宇都宮信房は、宇都宮氏の祖藤原宗円の次男。 寄進には源頼朝の要請があったといわれる。 真言宗泉涌寺派総本山で、本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏。 皇室の菩提寺として栄え、「御寺」(みてら)と呼ばれている。 |
月輪大師(がちりんだいし)は、1199年(正治元年)に宋へ渡り、天台・浄土・律・禅を極めて12年後に帰国した。 帰国後は、泉涌寺を天台・浄土・律・禅の四宗兼学の道場とし、北京律の祖と仰がれた。 後鳥羽上皇、順徳上皇をはじめ、北条政子、北条泰時も月輪大師について受戒している。 |
大門 |
仏殿 本尊:三世仏 |
舎利殿 謡曲「舎利」 の舞台 |
霊明殿 歴代天皇の位牌 |
御座所 |
楊貴妃観音堂 中国からきた像 |
浴室 僧が使用した風呂 |
泉涌水屋形 寺名の由来となった |
塔頭即成院 |
塔頭悲田院 |
即成院は、992年(正暦3年)、恵心僧都が伏見に建てた光明院を始まりとする。 境内には屋島の戦いで扇の的を射落としたことで知られる那須与一のものと伝えられる石造宝塔がある。 悲田院は貧しい人や孤児を救うための施設で、泉涌寺の悲田院は平安京の悲田院の後身と伝えられている。 |
清少納言歌碑 |
今熊野観音寺 |
一条天皇の皇后・藤原定子に仕えた清少納言は、その晩年を定子が葬られた鳥辺野近くの東山月輪で暮らしたのだという。 藤原公任の『公任卿集』にもその事が記されている。 東山月輪には、清少納言の父・清原元輔の邸宅があって塔頭の今熊野観音寺付近だったのだという。 |
鎌倉に建長寺を開いた宋の禅僧蘭渓道隆は、宋で修行していた泉涌寺の月翁智鏡との出会いが縁で、1246年(寛元4年)に来日。 筑前博多に上陸した道隆は、同地の円覚寺で布教活動をした後、翌年、智鏡の招きで上洛し、泉涌寺の来迎院に滞在した。 しかし、旧仏教で固められた京都では、道隆の活躍する場はなく、1248年(宝治2年)頃、智鏡の勧めで鎌倉へ下ったのだと伝えられている。 |
泉涌寺の第六世願行は、東寺を再興、高野山の復興に尽力した。 鎌倉に泉涌寺派の法燈を伝えた僧でもあり、鎌倉の長楽寺(安養院)、大楽寺、理智光寺を開き、伊勢原の大山寺を再建した。 覚園寺開山の智海心慧は、願行から密を受けたといわれ、浄光明寺の愛染明王像、玉泉寺の胎内不動は願行作と伝えられている。 また、大山寺の本尊鉄造不動明王像は、1296年(文永11年)、願行が江ノ島に参籠して鋳造したというもので国の重要文化財に指定されている。 |
鎌倉に泉涌寺派の法燈を伝えた願行 |
京都市東山区泉涌寺山内町27 JR奈良線「東福寺」駅から徒歩 総門まで15分、大門まで20分 |
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