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藤原公任(ふじわらのきんとう)は、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。 母は、厳子(醍醐天皇の第三皇子・代明親王の娘)。 966年 (康保3年)誕生。 妻は、村上天皇の第九皇子・昭平親王の娘で、藤原道兼の養女として公任に嫁いだ。 一条天皇の時代に秀才として知られた四納言の一人。 |
藤原頼忠 |
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醍醐天皇 |
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村上天皇 |
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面を踏む~才能あふれる公任と道隆・道兼・道長の三兄弟~ |
980年(天元3年)、清涼殿で元服。 理髪は藤原遠度、加冠は左大臣・源雅信(加冠は妻の伯父にあたる円融天皇とも)。 順調な昇進を重ねる中、982年(天元5年)には姉の遵子が円融天皇の皇后(中宮)となる。 円融天皇には藤原兼家の次女・詮子も入内していたが・・・ 遵子が皇后に定められた日、公任は兼家の邸宅・東三条院の前で 「こちらの女御はいつ皇后になられるのか」 と言い放ち、詮子と兼家の恨みを買ったのだという。 984年(永観2年)、円融天皇が退位し花山天皇が即位。 2年後の986年(寛和2年)、花山天皇は兼家の謀により山科の元慶寺で出家(寛和の変)。 詮子が産んだ一条天皇が即位した。 公任は、詮子の参内に供奉していたとき・・・ 「妊娠できない姉君はどちらに?」 と詮子の女房らに皮肉られたのだという 円融朝・花山朝で昇進を続けた公任だったが、一条天皇の即位により、兼家が摂政に就任し、政権が父頼忠から兼家に移ることに。 990年(永祚2年)、兼家が薨去し、子の道隆が関白となる。 993年(正暦4年)、一条天皇が大原野神社へ行幸。 道隆をはじめとする藤原氏の公卿ほぼ全員が供奉したが・・・ なかなか出世できず、道隆に不満をもっていた公任は、供奉せず勅勘を蒙っている。 |
清涼殿跡 (平安宮) |
清涼殿 (京都御所) |
公任が元服したのは平安宮の清涼殿。 京都御所の清涼殿は、1855年(安政2年)に平安時代の建築様式で造営。 |
花山天皇が出家した元慶寺は、868年(貞観10年)、藤原高子の発願により遍昭が開いた寺院。 |
大原野神社は、藤原氏の氏神・春日大社を勧請して創建された社。 |
花山天皇の退位を知っていた安倍晴明~寛和の変~ |
995年(長徳元年)、関白・藤原道隆が薨去。 弟の道兼が関白となるが、間もなく薨去。 その後、道隆の子・伊周と兼家の五男・道長が関白の地位を争うが・・・ 一条天皇の生母・詮子が道長を強く推したこともあって、道長に内覧が許され、さらに右大臣に任じられたことで、道長が氏の長者に。 翌年、伊周は長徳の変をきっかけに左遷されている。 道長に接近した公任は、1001年(長保3年)に中納言となり、1009年(寛弘6年)には権大納言に任ぜられた。 この間、親しかった藤原斉信に位階を越えられ、道長に中納言の辞表を提出するなど反発したこともあった。 この時の辞表は、大江匡衡が赤染衛門の知恵を借りて作成したものだったのだとか。 1012年(寛弘9年)、長女を道長の五男・教通に嫁がせるが・・・ 1021年(治安元年)、左大臣に道長の嫡男・頼通、右大臣に大納言の藤原実資、そして内大臣に権大納言で婿の教通が任ぜられることに。 道長の権勢では、子が優先ということが覚った公任は、やがて出世を諦めるようになる。 そして、1023年(治安3年)に次女(遵子の養女)が亡くなり、翌年には長女を亡くすと、権大納言を辞任。 1026年(万寿3年)、弟・最円がいる洛北長谷の解脱寺で出家した。 |
※ | 解脱寺は藤原詮子が祈願寺として建立した(廃寺)。 |
白河の地には、摂関家の別邸・白河殿があった。 道長の時代には、公任や藤原済時も白河に別業を設け「小白河殿」と呼ばれていたらしい。 |
1019年(寛仁3年)、古代日本最大の外敵侵略だったという刀伊の入寇は、藤原隆家らの活躍によって撃退されるが・・・ 公任と藤原行成は、勅符が届く前に戦闘が開始された私闘であるので、恩賞を与えるべきでないと主張。 それに対して、藤原実資は894年(寛平6年)の新羅の入寇の際の恩賞を例をあげて、その考えを改めさせたのだという。 |
刀伊の入寇~日本国を守った藤原隆家~ 刀伊の入寇の恩賞と武士の台頭 |
出家後は、解脱寺の北方の山荘に隠棲。 漢詩・和歌・音楽の三つの才能を兼ね備えていた公任は、『和漢朗詠集』を著しているが、山荘があった地は現在でも朗詠谷と呼ばれている。 1041年(長久2年)1月1日薨去(76歳)。 |
三舟の才~藤原道長の三舟の遊興と藤原公任~ |
解脱寺は、後に廃寺となり、跡地と言われる地には解脱寺閼伽井之碑が建てられている。 |
藤原公任の和漢朗詠集が国宝に。 |
一条天皇の時代に活躍した源俊賢・藤原公任・藤原斉信・藤原行成は、「一条朝の四納言」と呼ばれた。 |
997年(長徳3年)の賀茂祭の日、花山法皇が公任と藤原斉信の牛車を襲わせる事件が発生。 藤原道長が検非違使を出動させる事件となったが、左衛門尉(検非違使尉)だった橘則光が交渉して花山法皇に襲った者を引き出させたのだという。 |
花山法皇の濫行事件~賀茂祭の日に検非違使出動!~ |
『源氏物語』が文献上で初めて登場するは・・・ 藤原彰子が産んだ一条天皇の第二皇子(のちの後一条天皇)の誕生五十日の祝宴の日(1008年(寛弘5年)11月1日)。 『紫式部日記』の公任が紫式部を「若紫」と呼ぶ記事。 「若紫」とは『源氏物語』の登場人物・紫の上のこと。 そのことから、千年後の2008年(平成20年)、11月1日は「古典の日」に制定されている。 |
藤原障子の皇子出産と紫式部と源氏物語~『紫式部日記』~ 藤原公任と紫式部~源氏物語の初登場と古典の日:紫式部日記~ |
和歌の他、漢詩、管弦にも優れた才能を見せた公任。 「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」 (滝はの音は聞こえないが、その名声は語り継がれていくもの) この歌は、大覚寺の枯れてしまった滝を詠んだもの。 |
嵯峨院の苑池として造られた大沢池には人工の滝が築かれていたが、公任の時代には枯れてしまっていたらしい。 |
ただ、公任の歌が知られるようになると、枯滝は「名古曽の滝」(なこそのたき)と呼ばれるようになり、現在も滝跡が残っている。 源倫子や藤原彰子に仕えた赤染衛門も名古曽の滝を呼んだ。 |
大覚寺は、嵯峨天皇が営んだ嵯峨院を前身とする寺。 嵯峨天皇は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融の父。 |
「空寒み 花にまがへて 散る雪に すこし春ある 心地こそすれ」 この歌は、公任の下の句に清少納言が上の句をつけて完成させたもの。 |
清少納言の歌~藤原公任との連歌:白楽天の詩を踏まえて~ 白氏文集~『枕草子』・『源氏物語』に影響を与えた白楽天の詩文集~ |
一条天皇の皇后・藤原定子に仕えた清少納言は、その晩年、定子が葬られた鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだといわれる。 東山月輪には清少納言の父・清原元輔の邸宅があったのだという。 「ありつゝも 雲間にすめる 月の輪を いく夜ながめて 行きかえるらむ」 この歌は、公任が東山月輪に返り住んだ清少納言に贈ったもの。 |
清少納言の父・清原元輔の邸宅は、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近にあったといわれる。 |
鳥戸野陵は、藤原定子が葬られた地で、今熊野神社の北にある。 |
公任の長男・定頼は少々軽薄な人物であったようで・・・ 和泉式部の娘・小式部内侍、源頼光の養女・相模、紫式部の娘・大弐三位と関係をもったらしい。 |
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