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大原野神社は、桓武天皇が長岡京へ遷都した784年(延暦3年)に、皇后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神・春日大社を勧請して祀ったことに始まる。 そのため京春日と呼ばれる。 最初の鎮座地は諸説あるが、850年(嘉祥3年)、藤原冬嗣の孫の文徳天皇が現社地に社殿を造営したのだと伝えられる。 |
第一殿:建御賀豆智命 (たけみかづちのみこと) 第二殿:伊波比主命 (いわいぬしのみこと) 第三殿:天之子八根命 (あめのこやねのみこと) 第四殿:比賣神 (ひめがみ) |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部歌碑 (紫式部公園) |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ下向。 越前国の日野山に積もった雪を眺めながら、都にある小塩山の松を思い出して詠んだのが・・・ 「ここにかく 日野の杉むら 埋む雪 小塩の松に けふやまがへる」 (都でも小塩山の松に、雪がちらちらと散り乱れて降っていることであろうか) 都が恋しい紫式部は、小塩山の麓に鎮座する氏神と崇めた大原野神社を思い出していたのかもしれない。 紫式部歌碑が建てられている紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園。 |
大原野神社を崇敬した藤原氏は、女子が誕生すると、中宮や皇后になれるように祈願し、願いどおりにその地位につくと、行列を整えて参拝することを通例としていたのだという。 1005年(寛弘2年)、藤原道長の娘彰子が一条天皇の中宮になったときの行列は、目がくらむほどきらびやかで美しいものだったと伝えられている。 この行列には紫式部も供をしていたのだという。 |
『源氏物語』〜行幸の巻〜には、冷泉帝の行幸の様子が描かれている。 光源氏の愛人・夕顔の娘・玉鬘は、この行幸で初めて父・頭中将を見るとともに、光源氏とそっくりな冷泉帝を見た・・・ |
彼岸と源氏物語〜彼岸の頃は良い時節〜 |
清少納言は『枕草子』に素晴らしい神として・・・ 松尾大社・石清水八幡宮・大原野神社・春日大社・平野神社・水分神社・上賀茂神社・下鴨神社・伏見稲荷大社を挙げている。 |
993年(正暦4年)、一条天皇が大原野神社へ行幸。 関白・藤原道隆をはじめとする藤原氏の公卿ほぼ全員が供奉したのだという。 ただ、道隆に不満を持っていた藤原公任は供奉せず勅勘を受けたらしい。 |
清和天皇の皇后となった藤原高子は、876年(貞観18年)、当時の恋人・在原業平と大原野神社を参詣。 その時、業平は 「大原や小塩の山もけふこそは 神代のことも思い出づらめ」 と詠んだのだという。 花山天皇が出家した元慶寺は、藤原高子の発願で建立された寺。 |
大原野神社の狛犬は鹿。 祭神の建御賀豆智命(武甕槌命)は、常陸国の鹿島神宮から白鹿に乗って大和国の御蓋山にやって来たのだという。 のちに山の中腹に建てられた社殿が春日大社の始まり。 |
平安時代、藤氏長者や摂関が春日大社を参詣することを春日詣と呼んだ。 917年(延喜16年)に藤氏長者だった藤原忠平が参詣したのが最初。 989年(永祚元年)には、摂政の藤原兼家が次女の詮子を生母とする一条天皇の参詣を実現させている(春日行幸)。 |
斎女(いつきめ)は、春日大社や大原野神社に奉仕した未婚の女性。 藤原氏が、伊勢神宮に奉仕する斎宮や上賀茂神社・下鴨神社に奉仕する斎院にならって置いたもの。 重要な祭礼の際の神事に奉仕したのだという。 |
鯉沢の池は、奈良の猿沢池に真似て造られた。 |
若宮社には、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を祀っている。 |
瀬和井(せがい)は、清和天皇の産湯に使われたとも伝わり、多くの和歌に詠まれた清水。 |
2018年(平成30年)の台風で折れてしまった樅の木(樹齢約500年)。 中に入って木霊のパワーを受けることができる。 |
左京区吉田神楽岡にある吉田神社も春日大社を勧請して創建された社。 藤原兼家・藤原時姫・藤原詮子・一条天皇ゆかりの社で、一条天皇が即位すると大原野神社に並んで崇敬された。 道長の法成寺と吉田神社を崇めることは興福寺と春日大社を崇めるのと同じともいわれたらしい。 |
京都市西京区大原野南春日町1152 阪急東向日駅・JR向日町駅・阪急桂駅からバス「南春日町」下車、徒歩10分程度 |
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