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法成寺(ほうじょうじ)は、藤原道長が邸宅土御門殿の東側に建てた無量寿院を始まりとする。 1019年(寛仁3年)、出家した道長は浄土信仰に傾倒し、翌年には阿弥陀堂が完成。 さらに、金堂・五大堂・正妻・源倫子の願による西北院などが次々に建立され、摂関時代の最大の寺院として豪壮を極め、1022年(治安2年)、寺号を法成寺とする。 造仏を担当した定朝は、その褒美として仏師としては初めてとなる法橋の地位を与えられたのだという。 のちに定朝は、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像の造立することになる。 晩年を法成寺で暮らしたという道長は、1027年(万寿4年)12月4日、死去。 死期を悟った道長は、阿弥陀堂に入って九体の阿弥陀如来の手と自分の手とを糸で繋ぎ、西方浄土を願いながら往生したのだと伝えられている。 法成寺は、道長の死後も繁栄したが、1058年(天喜6年)に全焼。 その後再建されたが、鎌倉時代にも焼失。 鎌倉時代末期の吉田兼好の『徒然草』には、無量寿院(阿弥陀堂)のみとなっていた事が記されている。 |
藤原道長の出家と最期 |
金銅藤原道長経筒〜御嶽詣と弥勒信仰と道長の願文〜 |
道長は、晩年を法成寺で暮らしたことから「御堂殿」と呼ばれ、のちに「御堂関白」と称されたが、関白にはなっていない。 |
関白にならなかった御堂関白・藤原道長〜内覧と摂政と関白〜 |
東北院は、藤原彰子(上東門院)の発願で法成寺東北の一郭に建立された常行三昧堂を始まりとする寺院。 浄土寺真如町に移転するまでは、本禅寺・清浄華院・蘆山寺辺りにあったものと考えられている。 蘆山寺の雲水の井戸は、東北院の遺構とされている。 |
誠心院は、紫式部と同僚女房だった和泉式部が初代住職となった寺。 道長から法成寺の塔頭東北院の一角に一庵を賜ったのが始まり。 |
清浄華院には、法成寺境内推定地で出土した建物の礎石が置かれ、法成寺の遺物である可能性があるのだという。 |
ある日、道長が法成寺の門を入ろうとすると、可愛がっていた白い犬がそれを止めたのだという。 安倍晴明が占ってみると、土中に呪いのものが埋められているからだった・・・ |
藤原道長を救った白い犬と安倍晴明の占い |
土御門第(土御門殿)は、藤原道長の邸宅跡。 後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の里内裏になった。 |
道長の子頼通が建立した宇治の平等院は、法成寺を参考にしたのだという。 鳳凰堂の阿弥陀如来は、法成寺の造仏を手掛けた定朝の作で、確認されている唯一の遺作。 |
道長の法成寺の北には、道長の娘で一条天皇の皇后彰子に仕えた紫式部の住まいがあった。 蘆山寺はその邸宅跡とされている。 |
東福寺 |
同聚院 |
東福寺は、道長の祖父・藤原忠平が建立した法性寺の境内地に建てられた寺。 道長は法性寺に五大堂を建立したが、兵火によって焼失。 ただ、不動明王は難を免れて東福寺塔頭の同聚院に安置されている。 晩年、病に苦しんでいたという道長は、法性寺に替わる祈願所として法成寺を建立したのかもしれない。 |
慈受院は薄雲御所と呼ばれ、旧地が法成寺の跡地にあったため『源氏物語』ゆかりの寺院とされている。 |
吉田神社は、藤原兼家・藤原時姫・藤原詮子・一条天皇ゆかりの社。 道長の法成寺と吉田神社を崇めることは興福寺と春日大社を崇めるのと同じともいわれたらしい。 |
法成寺址は、京都御所のある京都御苑の清和院御門を出た所。 |
京都市上京区京都御苑3 地下鉄烏丸線「今出川駅」より徒歩5分 |
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