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平等院は、998年(長徳4年)、御堂関白と呼ばれた藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別荘「宇治殿」が始まり。 道長没後の1052年(永承7年)3月28日、子の頼通は宇治殿を寺として平等院と命名したのだという。 開山は明尊。 この頃の日本は、釈迦入滅後2000年後に仏法が廃れるという「末法思想」が広く信じられた時代で、貴族は極楽往生を願い、阿弥陀如来を本尊とする仏堂を建立していた。 平等院が創建された1052年(永承7年)は「末法元年」といわれる年で、平等院でも翌年には西方極楽浄土を表現したという鳳凰堂(阿弥陀堂)が建立され、定朝作の阿弥陀如来像が安置されている。 開基の藤原頼通は、御所の傍らに巨大な高陽院を造営していたが、晩年は平等院に隠棲。 1074年(延久6年)2月22日、平等院で薨去し、近辺で火葬された後、宇治陵に葬られたものと考えられている。 |
※ | 現在の平等院は、天台宗系の最勝院と浄土宗の浄土院によって管理されている |
※ | 平等院は、道長が建てた法成寺(廃寺)を参考にして建立されたのだという。 |
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平等院の前身「宇治殿」は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとされる源融が営んだ別荘が始まり。 宇多天皇、源重信(宇多天皇の孫)を経て道長のものとなった。 融の邸宅は六条にあった河原院で、その一部は東本願寺の庭園(渉成園)となっている。 嵯峨の清凉寺にも別荘「栖霞観」(せいかかん)があった。 |
※ | 藤原道長も光源氏のモデルの一人といわれる・・・ |
「宇治十帖」の「椎本」(しいがもと)に登場する夕霧の別荘は、平等院(宇治殿)がモデルなのだとか。 |
平等院は後冷泉天皇の在位中に建てられたが、荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあった時代。 後冷泉天皇の崩御後に即位したのは、藤原氏を外戚としない後三条天皇。 これを機に摂関の権力は弱体化の一途をたどり、院政の時代へと変わっていくこととなる。 |
![]() (重文) |
![]() (国宝) |
平等院は、1180年(治承4年)、平家打倒の令旨を発布した以仁王とともに挙兵した源頼政の終焉の地。 平等院の戦いでは、宇治橋の東詰の通圓茶屋の創業者初代通圓も討死している。 |
頼政終焉の地![]() ![]() |
塔頭最勝院![]() |
頼政の家臣![]() |
![]() (平泉) |
![]() (鎌倉) |
奥州藤原氏三代当主・秀衡が平泉に建てた無量光院は、悉く平等院を模したものだったと伝えられている。 鎌倉の永福寺は、源頼朝が平泉の寺院を模して建立した寺院で、苑池は鳳凰堂前の阿字池のようであったと想定されている。 |
1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が起こした承久の乱では、6月13日に朝廷軍と幕府軍が宇治橋で対峙。 幕府軍の大将軍北条泰時は平等院で休息をとって、翌日、宇治川を渡河して朝廷軍を敗走させた。 |
宇治市宇治蓮華116 JR奈良線「宇治駅」下車徒歩10分 京阪電鉄宇治線で「京阪宇治駅」下車徒歩10分。 |
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