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かわいいフリー素材集「いらすとや」より。 |
1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇が挙兵。 翌日には北条義時追討の宣旨が発せられた(承久の乱)。 鎌倉には5月19日にその報がもたらされ、御家人らの動揺は隠せない状況に。 そんな御家人らに尼将軍・北条政子は、安達景盛に代読させ源頼朝の恩顧を訴えた。 『吾妻鏡』によると、 「故右大将軍(頼朝)が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いもの。 感謝の気持ちは浅くないはず。 しかしながら、反逆者が事実でない事を訴え、道理からはずれた院宣が発せられた。 名声を大切にしようと思う者は、藤原秀康・三浦胤義を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。 ただし、後鳥羽上皇のもとに参ろうと思う者は、今すぐ申し出なさい」 これを聞いた者たちは、命を懸けて恩に報いる決意を返答したのだと伝えられている。 涙で返答できない者もいたのだとか。 また、軍議で出た箱根・足柄で徹底抗戦するという慎重論に対しては、「速やかに上洛せよ」と命じた。 |
※ | 藤原秀康は、和田義盛の又甥ともいわれる朝廷軍の大将軍。 |
※ | 三浦胤義は三浦義村の弟で、政子の言葉からすると朝廷軍の中心的人物だったと考えられる。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 北条義時追討の宣旨に対する返書 三浦義村の弟・胤義 北条泰時の出陣 弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清:大井戸の渡し〜 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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