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かわいいフリー素材集「いらすとや」より。 |
慈光寺本『承久記』によると・・・ 後鳥羽上皇が、武田信光・小笠原長清・小山朝政・宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房・三浦義村に北条義時追討の院宣を下したことを知った北条政子は、こう演説したのだという。 「皆よく聞きなさい。 私ほど若いころから物思いの絶えない者はいません。 姫御前(長女の大姫)・大将殿(源頼朝)・左衛門督殿(長男の頼家)・右大臣殿(次男の実朝)に先立たれ、四度もの辛い思いをしてきました。 今度、権大夫(弟の義時)が討たれることとなれば、五度目の悲しみを味わうことになってしまいます。 「女人五障」とはこの事なのでしょうか。 皆は、降る日も照る日も都での内裏大番を三年間務め、おおきな負担を強いられてきました。 それを右大臣殿(実朝)が朝廷と交渉して軽くしてくれました。 今、皆が京方について鎌倉を攻めることは、大将殿(頼朝)と右大臣殿(実朝)の御墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの。 御恩を受けた者がすることではありません。 私が深山に隠棲して、流す涙のを不憫とは思いませんか。 皆、京方につくか、鎌倉方につくか、有りのままに仰せられよ」 この演説で、武田信光が鎌倉に味方することを表明すると、異議を唱える者はなかったのだという。 |
北条義時追討の官宣旨案 (神奈川県立歴史博物館(原本:個人蔵)) 北条義時追討の宣旨 (『承久記』(流布本)) 北条義時追討の院宣 (『承久記』(慈光寺本)) 三浦義村の弟・胤義 北条泰時の出陣 弓矢の道の習わし〜武田信光と小笠原長清:大井戸の渡し〜 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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