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三浦胤義は、源頼朝の重臣三浦義澄の末子で三浦義村の弟。 胤義の正室は、二代将軍源頼家の側室だった一品房昌寛の娘。 頼家が修禅寺で暗殺された後、胤義が妻に迎えた。 頼家の三男・栄実と四男・禅暁は胤義の妻が産んだ子。 栄実は、1213年(建暦3年)2月の泉親衡の乱に利用された後、北条政子の計らいで出家していたが、1214年(建保2年)、和田の残党に再び擁立されて六波羅を襲撃しようと企て、その計画が露見し、幕府の襲撃を受けて自刃したといわれている(参考:和田合戦)。 禅暁は頼家の死後、仁和寺に預けられていた。 |
1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺され、実朝を討った公暁が誅殺されると、胤義は、禅暁を将軍に据えようと考える。 しかし、北条政子と北条義時は、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を将軍として迎えてしまう。 禅暁は公暁に加担していたとして、1220年(承久2年)4月14日に誅殺されている。 |
『承久記』によれば・・・ 検非違使判官に任じられて在京していた胤義は、承久の乱の首謀者の一人・藤原秀康に誘われて朝廷軍に与する。 その理由は、頼家との子を北条氏に殺されて嘆き悲しむ妻を哀れに思い、鎌倉に謀反を起こそう考えたからなのだという。 『吾妻賀』によると・・・ 1221年(承久3年)6月14日、幕府軍は、北条泰時が宇治川を渡河し、北条時房が瀬田橋を突破して、朝廷軍を敗走させ、翌15日には京都市中に進軍。 胤義は東寺の門中に籠って、同族の三浦・佐原の軍勢と戦った後、西山の木嶋(太秦)で自刃。 首は胤義の家来が太秦の自邸へ持って向かったが、兄の三浦義村が捜し出して手に入れ、六波羅の泰時邸へ送ったのだとか・・・。 |
三浦胤義が立て籠もった東寺は、平安京鎮護の寺として創建された。 中世の東寺は城郭化され、現在でも南大門や北大門の外側には堀の一部が残されている。 |
承久の乱は、後鳥羽上皇が起こした打倒北条義時の兵乱。 後鳥羽上皇方の敗北により、後鳥羽上皇・順徳上皇・土御門上皇が流され、後鳥羽上皇に加担した公家・武士などの所領は没収。 朝廷の動きや西国御家人を監視するため六波羅探題が設置された。 |
よみがえる承久の乱 −後鳥羽上皇VS鎌倉北条氏− |
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