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仁和寺は、886年(仁和2年)、光孝天皇が「西山御願寺」の建立を発願し着工されたことに始まる。 光孝天皇は翌年崩御するが、その遺志を継いだ宇多天皇が、888年(仁和4年)に完成させ、元号にちなんで仁和寺とした。 真言宗御室派の総本山。 本尊は阿弥陀如来。 宇多天皇は退位して法皇となった後、仁和寺を住坊とし、以後、明治維新まで皇子皇孫が仁和寺の門跡(住職)となったことから御室御所と呼ばれた。 応仁の乱の兵火によって焼失するが、 1635年(寛永11年)、仁和寺第二十一世の覚深法親王が上洛していた徳川幕府3代将軍家光に再興の申し入れをして承諾され、 これに御所の建て替えも重なり、御所から紫宸殿、清涼殿、常御殿など建造物が下賜され、1646年(正保3年)に再建が完了した。 |
二王門 (国重文) |
御殿(本坊) (白書院・宸殿など) |
中門 (国重文) |
金堂 (国宝) |
五重塔 (国重文) |
九所明神 (国重文) |
経蔵 (国重文) |
鐘楼 (国重文) |
水掛不動明王 |
御影堂 (国重文) |
観音堂 (国重文) |
紫式部の『源氏物語』〜若菜上〜で光源氏の兄・朱雀院が出家した寺は、仁和寺がモデルらしい。 |
紫式部が仕えた藤原彰子の母・源倫子は仁和寺に葬られている。 |
四円寺は、皇室の御願寺として建てられた四つの寺のことで仁和寺の子院だった。 円融天皇の円融寺、一条天皇の円教寺、後朱雀天皇の発願で後冷泉天皇のときに完成した円乗寺、後三条天皇の円宗寺があった。 退位後、円融寺に住んだ円融上皇は、仁和寺で競馬・競射・打毬を観覧している。 円融寺は円融上皇の死後衰退し、室町時代、跡地に龍安寺が創建されている。 円教寺・円乗寺・円宗寺も廃寺となった。 四円寺は、白河天皇の法勝寺をはじめとする六勝寺の先例といわれる。 |
競馬・騎射・打毬〜花山天皇と円融上皇と王権誇示の馬術競技〜 |
1192年(建久3年)、源頼朝は落胤を仁和寺の法眼隆暁に弟子入りさせている。 のちの貞暁。 貞暁は、妾の大進局との間に授かった子で、北条政子の勘気に遭い、人目を憚るように育てられていたという。 のちに高野山へ登り、そこで最期を遂げている。 |
仁和寺のある法師が、かねてからの念願だった石清水八幡宮に参詣したときのこと。 法師は、麓の極楽寺や高良神社に参詣して、石清水八幡宮とはこれだけのものかと思って帰ってしまった。 帰った後、仲間の僧に「念願の石清水八幡宮に詣でることができた。前々から聞いていたのにも増して尊いものだった。 ただ、参詣者が山へ登っていったのは何事かあったのだろうか。私も見たいと思ったが神に参拝することが目的であったので、山までは登らなかった」と語ったのだという。 |
白河法皇の寵妃で、平清盛の母ともいわれる祇園女御は、1111年(天永2年)に仁和寺内に威徳寺を建立。 晩年は威徳寺の住坊に住んで、法皇の冥福を祈ったのだと伝えられている。 |
1868年(慶応4年)の鳥羽伏見の戦いで征討大将軍に任命されたのが、仁和寺第三十世門跡だった純仁親王。 前年に還俗を命じられ、仁和寺宮嘉彰親王と名乗り、鳥羽伏見の戦いが始まると東寺の本営に入っている。 |
のちに仁和寺宮嘉彰親王は、小松宮彰仁親王に改称。 |
御室仁和寺駅は京福電気鉄道北野線の駅。 かつては「御室駅」といったが、2007年(平成19年)に御室仁和寺に改称した。 駅前からは二王門が見える。 |
京都市右京区御室大内33 ・嵐電北野線「御室仁和寺駅」下車 徒歩約2分 ・京都駅からJRバス:高尾・京北線「仁和寺前」下車すぐ |
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