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打毬(だきゅう)は、平安時代、端午節会の際に行われた宮中行事で、競馬や騎射の後に行われていた馬術競技(球技)。 中央アジアの一角に発したものとされ、その起源はヨーロッパに伝えられた馬術競技の「ポロ」とを同じといわれている。 競技は、乗馬した競技者が左右に分かれ、毬を大臣が投げ入れて始まる。 競技者は毬を杖(スティック)で打ち、毬門(ゴール)に入ると勝利。 打毬は、雅楽や舞楽にも通じ、競技中は「打毬楽」(たぎゅうらく)という伴奏曲が演奏されていたのだという。 打毬は唐で盛んに行われていたもので、822年(弘仁13年)正月、 「渤海国の国使が豊楽殿で打毬を行い、その賭として嵯峨天皇から棉200屯を賜った」 という記録があることから、渤海国を通じて弘仁年間に日本に伝わったとする説が有力。 また、834年(承和元年)には仁明天皇が武徳殿の庭で打毬を行わせたという記録もある。 |
渤海国の国使による打毬が行われた豊楽殿は、平安宮(大内裏)にあった豊楽院の正殿。 元日節会・新嘗祭・大嘗祭などの国家的行事が行われていた。 |
仁明天皇の時代に伝わったといわれる舞楽・打毬楽(たぎゅうらく)の装束。 |
風俗博物館~道長の栄華・彰子に仕えた紫式部・源氏物語~ |
紫式部の『源氏物語』~蛍の巻~では・・・ 光源氏は六条院の花散里の御殿「夏の町」の馬場で「手結」(てつがい)を催している。 息子の夕霧が武徳殿での催しの後に行ったもので、紫の上の「南の町」にも続いていたため多くの女房が見物。 勝負のたびに「打毬楽」や「落蹲」(らくそん)などが奏でられた。 この「手結」は「打毬のことではないか?」という説がある。 |
馬術競技には軍事的要素も含まれていた。 そのため、天皇以外の者が催すことはできず、865年(貞観7年)には、私的に馬術競技を催すことを禁じる法令が出されている。 しかし、平安時代中期になると上皇や摂関による開催が見られるようになってくる。 |
競馬・騎射・打毬~花山天皇と円融上皇と王権誇示の馬術競技~ 東三条院競馬~藤原道長の私的開催と藤原詮子~ |
鴻臚館は、能登国の能登客院や越前国の松原客館に滞在していた渤海使を招いていた施設。 鴻臚館は渤海滅亡後に衰微してしまうが、松原客館は、渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたとういう説がある。 紫式部の父・藤原為時は、その交渉相手として国司に選ばれたとのだといわれる。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。 |
打毬は、鎌倉時代になると打ち続く戦乱や経済的理由により行われなくなるが、江戸時代になって八代将軍・徳川吉宗の奨励するようになる。 競技法は平安朝期のものではないが、宮内庁などに伝承されている競技法の原型となったらしい。 |
「端午の節句」は「菖蒲の節句」とも呼ばれ、菖蒲の長い根を贈り合う風習があったのだとか。 紫式部と小少将の君から菖蒲の根を贈られている。 |
紫式部の歌~菖蒲の歌:小少将の君と紫式部の贈答歌~ |
端午節会(端午の節句)は、平安時代の宮中で盛んに催され、清少納言は『枕草子』に「節供は5月に及ぶものはない」と記し、紫式部は『源氏物語』に描いている。 |
『吾妻鏡』には、1187年(文治3年)5月5日、鶴岡八幡宮で神事が行われ、北条政子が参拝したことが記されている(現在の菖蒲祭)。 「菖蒲」は武道・武勇を重んじる「尚武」に通じるものとされてきた。 また、源頼朝が行わせた草を束ねて鹿の形にして射る訓練が「草鹿神事」として残っている。 |
菖蒲祭 (鶴岡八幡宮) |
草鹿 (鎌倉宮) |
菖蒲祭では舞楽が奉納され、『吾妻鏡』にも鶴岡八幡宮で盛んに舞楽が行われた様子が記されている。 |
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