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気比神宮(けひじんぐう)は、702年(大宝2年)創建と伝えられる北陸道の総鎮守。 越前国の一宮。 地元では「けいさん」の愛称で親しまれる古社。 中世には広大な社領を有し、京都粟田口の青蓮院が社務職をもっていたらしい。 1570年(永禄13年)の織田信長の兵火により焼失し衰微するが、1603年(慶長8年)、福井城の結城秀康(福井藩主)が再建を命じている。 また、1634年(寛永11年)、青蓮院四十八世門跡の尊純法親王は、酒井忠勝が小浜藩主となると気比社の保護を依頼している。 1945年(昭和20年)の空襲で焼失。 現在の主要社殿は戦後の再建。 ただ、空襲を免れた大鳥居は、春日大社・厳島神社と並ぶ日本三大木造大鳥居の一つに数えられている(重要文化財)。 |
酒井忠勝寄進の大鳥居は国の重要文化財。 |
松原客館は、平安時代前期に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため越前国敦賀に建てられた迎賓・宿泊施設。 |
気比の松原付近にあったともいわれるが、気比神宮の神官が管理していたともいわれることから、気比神宮近くにあったという説もある。 |
鴻臚館は、能登国の能登客院や越前国の松原客館に滞在していた渤海使を招いていた施設。 平安宮の豊楽殿では、渤海使による打毬が行われたらしい。 『源氏物語』~桐壺巻~には・・・ 桐壺帝が幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている様子が描かれている。 |
打毬~端午の節会の宮中行事と源氏物語~ |
928年(延長6年)に渤海は滅亡するが、松原客館は渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたとういう説がある。 996年(長徳元年)、越前守となった紫式部の父・藤原為時は、その前年から越前国に滞在していた宋の商人・朱仁聡らとの交渉相手として任命されたともいわれる。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部(紫きぶ七橋) |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 |
『源氏物語』の宇治十帖・浮舟の巻には、 「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを・・・」 とある。 宇治から帰京する浮舟の母が、 「たとえあなたが、遠い武生の国府のような所へ行ってしまったとしても、こっそりとお伺いしましょう・・・」 と浮舟を慰めている場面。 手習の巻では、 浮舟を救った比叡山の横川の僧都の母・大尼君が 「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」 と口ずさんでいる。 |
多賀城碑は、陸奥国府や鎮守府が置かれていた多賀城に762年(天平宝字6年)に建立された古碑。 平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(渤海国)から多賀城までの距離が刻まれている。 |
『義経記』によると、壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだという。 義経は唐崎の松、比叡山、日吉大社、堅田浦を眺めながら琵琶湖の西岸沿いを進み、白鬚神社を拝みながら今津浦を過ぎて海津浦へ。 海津浦から愛発山を越えて敦賀に至り、気比神宮で祈願した後、木ノ芽峠を越えて越前武生に辿り着いたらしい。 |
福井県敦賀市曙町11-68 JR敦賀駅から歩約15分 |
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