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多賀城(たがじょう)は、724年(神亀元年)、大野東人(おおののあずまびと)が蝦夷討伐のために築いた城柵。 奈良時代から平安時代には陸奥国府や鎮守府が置かれ、古代東北 の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たした。 802年(延暦21年)、坂上田村麻呂は蝦夷討伐を行い、首長の阿弖流為・母礼を降伏させて蝦夷地を平定。 この時、胆沢城が築かれたことにより、鎮守府は多賀城から胆沢城に移され、多賀城はもっぱら国府として機能することになる。 869年(貞観11年)に起こった巨大地震(貞観地震)により大きな被害を受けるが、多賀国府として復興される。 源頼義・源義家父子が活躍した前九年の役(1051-1062)や後三年の役(1083-1087)でも軍事的拠点として機能するが・・・ その後、奥州藤原氏が勢力をふるうようになると、東北の要の地位は平泉へ移ることとなった。 1960年(昭和35年)からの発掘調査では・・・ 軍事基地としてのみ捉えられてきた多賀城は、平城宮や平安宮などの儀式の場だった朝堂院式の政庁であったことが判明している。 |
多賀城創建1300年にあたる2024年(令和6年)、復元された南門が公開される予定。 |
陸奥国には、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとされる源融と藤原実方が下向している。 源融は、864年(貞観6年)に陸奥・出羽の按察使として赴任。 帰京後は、鴨川のほとりに邸宅の河原院を造営し、その庭園は塩竈の風景を模したものだったといわれる。 藤原実方は、995年(長徳元年)に陸奥守として赴任。 実方は清少納言と交際していたとも言われる貴族。 笠島道祖神(佐具叡神社)を通る際に下馬しなかったため、神罰によって落馬して亡くなったのだと伝えられている。 |
藤原秀衡は、源義経を庇護したことで知られる奥州藤原氏の三代当主。 1181年(養和元年)、平清盛亡き後に平家の棟梁となった平宗盛は、前年に挙兵した源頼朝を牽制するため、秀衡を陸奥守に推挙している。 |
1189年(文治5年)、奥州征伐を行った源頼朝は先祖・頼義の先例に倣って多賀城に立ち寄っている。 奥州征伐後、頼朝は伊沢家景を陸奥国留守職として赴任させている。 伊沢家景は、藤原道長の兄で関白太政大臣だった藤原道兼の玄孫なのだという。 |
1333年(建武2年)、鎌倉幕府が滅亡すると、陸奥守となった北畠顕家が義良親王(のちの後村上天皇)を奉じて下向し、東北地方を統治している。 |
多賀城碑は、日本三古碑の一つに数えられ、国の重要文化財に指定されている。 |
浮嶋神社 |
陸奥総社宮 |
浮嶋神社の境内社・大臣宮神社は、源融を祀る社。 陸奥総社宮は、都から下向した歴代の陸奥国司が参拝した社。 |
鹽竈神社 (塩竃市) |
融ヶ岡 (塩竃市) |
鹽竈神社は、多賀城の鬼門の位置に鎮座する陸奥国一宮。 源融は鹽竈神社の南の融ヶ岡に別荘を構えていたのだという。 |
藤原実方の墓 (名取市) |
佐倍乃神社 (名取市) |
藤原実方の墓は、佐具叡神社があった地に建てられている。 佐倍乃神社は、佐具叡神社を合祀する社。 |
宮城県多賀城市市川 JR東北本線「国府多賀城駅」から徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
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