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多賀城碑は、762年(天平宝字6年)に多賀城を改修した藤原朝狩が設置したもの。 江戸時代の初期に発見されたもので、群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑の一つ。 碑文の前半には、平城京、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国から多賀城までの距離が記され、後半には、多賀城が大野東人によって設置され、その後、藤原朝狩が改修したことが記されている。 |
国の重要文化財に指定されていた多賀城碑は、2024年(令和6年)、奈良時代の石碑として非常に価値が高いことから国宝に指定された。 |
碑に刻まれている靺鞨(まっかつ)は、度々日本に使節を派遣していた渤海(ぼっかい)のこと。 渤海使節は、727年(神亀4年)から920年(延喜20年)までの約200年間に30数回渡来しているのだという。 能登国の能登客院や越前国の松原客館に滞在し、都にも宿泊施設の鴻臚館があった。 平安宮の豊楽殿では、渤海使による打毬が行われたらしい。 『源氏物語』~桐壺巻~には・・・ 桐壺帝が幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている様子が描かれている。 作者の紫式部の父藤原為時は、越前国敦賀に滞在していた宋の商人・朱仁聡らの交渉相手として越前守に任命されたといわれている。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
越前国の松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。 渤海滅亡後も宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたらしい。 |
多賀城碑は、「壺碑」(つぼのいしぶみ)とも呼ばれ、松尾芭蕉の『おくのほそ道』にも登場する。 芭蕉は、昔から詠まれた歌枕は、時が移り変わりとともにその遺跡がはっきりしないものばかりになったが、この碑だけは昔からの姿と留めていることに感動したらしい。 「壺碑」は、平安時代の終わり頃から歌に詠みこまれた歌枕。 西行や源頼朝も・・・ 「むつのくの 奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺のいしぶみ 外の浜風」 (西行) 「陸奥の いはで忍は えぞ知らぬ かき尽くしてよ 壷のいしぶみ」 (源頼朝) と詠んでいるが、青森県で発見された石碑が「壺碑」とする説もある。 したがって、西行や源頼朝が詠んだ「つぼのいしぶみ」は、どちらの碑なのかは不明。 |
碑の覆屋は、徳川光圀が仙台藩主・伊達綱村に建てるよう進言したのだという。 |
宮城県多賀城市市川 JR東北本線「国府多賀城駅」から徒歩15分 |
大きい地図を見るには・・・右上のフルスクリーンをクリック。 |
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