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朱仁聡(しゅじんそう)は北宋の商人。 995年(長徳元年)8月頃、林庭幹・羌世昌(周世昌)ら70余人とともに若狭国に来航。 9月4日、藤原道長が唐人来着文を一条天皇に奏上し、その対応が審議され、9月23日には唐人を越前国へ移すことが決められた。 その後、朱仁聡らは約5年間にわたって越前国に滞在。 1000年(長保2年)に大宰府に移り、1002年(長保4年)に帰国したと考えられている。 |
※ | 中国人は唐人(とうじん)と呼ばれていた。 |
藤原為時は、『源氏物語』を書いた紫式部の父。 朱仁聡が来航した翌996年(長徳2年)正月、越前守に任命された。 当初、越前守に任命されたのは源国盛で、為時は淡路守だったが、藤原道長と一条天皇の意向により交替となった。 漢詩に堪能だった為時を越前守にすることで、唐人との交渉を円滑に進めようとしたのだといわれ・・・ 為時は、朱仁聡とともに来航していた羌世昌(周世昌)と詩をやりとりしていたと伝えられている。 のちに紫式部と結婚する藤原宣孝は「唐人を見に行く」と言っていたらしい。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
越前守となった為時は、夏には越前国へ下向。 紫式部も同行していた。 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園。 平安朝式庭園が再現された園内には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 |
越前国に移された朱仁聡らの滞在先は、越前国府があった武生ではなく敦賀津と考えられている。 敦賀には渤海の使節団(渤海使)を迎えるために建てられた施設「松原客館」があった。 渤海の滅亡後は、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたらしい。 朱仁聡らも松原客館を利用していたと考えられている。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。 |
朱仁聡が来日すると、源信(恵心僧都)が弟子の寛印とともに敦賀を訪れている。 源信が朱仁聡に会うのはこれが初めてではなく、987年(永延元年)に朱仁聡が来日した時にも会っていたらしい。 |
比叡山の横川にある恵心堂(恵心院)は、藤原兼家が建立。 恵心僧都と呼ばれた源信が修行をし『往生要集』を著したことから、浄土信仰発祥の地といわれる。 紫式部の『源氏物語』(宇治十帖)で浮舟を救った横川の僧都のモデルは恵心僧都なのだとか。 |
恵心院 (宇治) |
浮御堂 (大津市) |
宇治の恵心院は、恵心僧都源信が再興した寺。 琵琶湖に浮かぶ浮御堂は、恵心僧都源信が創建した満月寺の堂。 |
一条天皇の皇后宮・藤原定子は、越前滞在中の朱仁聡から雑物を購入しているが・・・ 1000年(長保2年)、購入代金が未払いとして訴えられている。 蔵人頭・藤原行成による定子への聞き取りによると・・・ 定子は代金を越前国へ送ったが、朱仁聡が大宰府に移った後だったため未払いになってしまったのだという。 その後、定子は大宰府に使者を遣わして代金を支払うが、朱仁聡は代金不足を主張。 差額は、仲に入った太宰大弐の藤原有国が横領してしまったのだとか。 |
藤原実資の『小右記』によると、997年(長徳3年)、朱仁聡が若狭守だった源兼澄を陵轢する事件が起こっている。 朱仁聡が越前国へ移った後も若狭国との接触があったことを示す事件。 事件の内容は不明だが、兼澄も定子と同じように唐物を購入しようとしてトラブルが起こったのかもしれない。 |
朱仁聡は、石清水八幡宮に物品を献じていたが、999年(長保元年)、使者が修行僧に捕らえられているらしい。 |
1000年(長保2年)、朱仁聡は大宰府に移されるが、その理由は定かではないが、 藤原実資の『小右記』によると・・・ 997年(長徳3年)、高麗から日本の名誉を傷つける書状がもたらされ、朱仁聡らが都に近い越前国で謀略を起こす可能性があると考えられていたらしい。 唐人を速やかに帰国させるべきという意見が出されていたとも伝えられている。 源兼澄を陵轢する事件も原因なのかもしれない。 |
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