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国府は、奈良時代から平安時代に国司が政務を執った役所(国庁)が置かれた都市。 国庁のほかにも、聖武天皇が国家鎮護のため建立を命じた国分寺や国分尼寺、その国の神社の祭神を 合祀した総社(惣社)が設置されていた。 越前国の国府は武生に置かれていたとされているが、その位置がはっきりしない。 ただ、総社や国分寺があり、御霊信仰に基づく御霊神社があることから武生に置かれていたことは間違いない。 何より、紫式部の『源氏物語』には「武生の国府」とある。 |
全国の国分寺の総本山は、総国分寺とされた大和国の東大寺。 各国の国分寺は、国庁とともにその国の最大の建築物だった。 越前国分寺がどこに創建されたのかは不明。 現在は延暦寺の末寺。 |
総社大神宮は、中央から派遣された国司が、着任後に参拝した社。 |
御霊神社は、桓武天皇の皇子・早良親王の霊を鎮めるため、全国の国司に建立が命じられた社なのだという。 武生に御霊神社があるのは、国府があった証拠といわれている。 |
本興寺の境内は、国府の中核施設が眠る有力候補地と推定されている。 2023年(令和5年)から始められた発掘調査では、平安期の溝と柱穴が発見されている。 |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 |
日野山は、山岳信仰の霊山。 越前富士とも呼ばれ、越前で暮らした紫式部が眺めていた山なのだという。 紫式部像の視線の先にあるのは日野山。 |
松原客館は、渤海の使節団(渤海使)を迎えるために建てられた施設。 渤海の滅亡後は、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたらしい。 紫式部の父・藤原為時は、敦賀に滞在していた宋の商人・朱仁聡らの交渉相手として越前国司に任命されたともいわれている。 |
気比の松原 (敦賀市) |
気比神宮 (敦賀市) |
松原客館があった正確な場所は不明だが、気比の松原付近にあったのではないかといわれている。 また、気比神宮が管理していたことから気比神宮付近にあったという説もある。 |
宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 中宮・彰子に新楽府を進講する紫式部(紫きぶ七橋) |
岡太神社 |
越前和紙の里 |
越前は和紙の産地。 岡太神社は、紙祖神の川上御前を祀る古社。 越前和紙の里では、紙漉き体験・伝統工芸士による紙漉き・越前和紙の資料展示などが催されている。 |
『義経記』によると・・・ 壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだという。 義経は唐崎の松、比叡山、日吉大社、堅田浦を眺めながら琵琶湖の西岸沿いを進み、白鬚神社を拝みながら今津浦を過ぎて海津浦へ。 海津浦から愛発山を越えて敦賀に至り、気比神宮で祈願した後、木ノ芽峠を越えて越前武生に辿り着いたらしい。 |
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