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御霊神社は、桓武天皇の弟・崇道天皇(早良親王)を祀る社。 早良親王は、桓武天皇が即位すると皇太子となるが、謀反の罪で廃され、断食をして没し、怨霊となったのだとされる。 801年(延暦24年)、桓武天皇は早良親王を「崇道天皇」と謚(おくりな)し、諸国に小倉を建てさせて、追善供養を行わせたのだという。 御霊神社は、その縁によって建立されたものと考えられる。 |
御霊神社(上御霊神社)は、794年(延暦13年)、桓武天皇が早良親王の怨霊を鎮めるため建立。 当時は、天変地異が相次ぎ、疫病が流行し、怨霊の祟りとされていた。 そのため、禍を終息させる「御霊」として崇められるようになり、御霊を祀る神社が建立されようになったのだという(御霊信仰)。 |
総社大神宮の境内には「越前国府の碑」が建てられているが、越前国府があった具体的な場所は不明。 国府周辺には、地域の神を合祀した総社と、大和国の東大寺と法華寺を総本山とする国分寺・国分尼寺が設置された。 御霊神社は、総社の御旅所で、越前国府と関わりの深い神社だったらしい。 本興寺には「紫式部ゆかりの紅梅」があって、その境内は越前国府の中核施設が眠る有力候補地と推定されている。 |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守に叙任された父の藤原為時に同行して越前国へ下向。 紫式部公園は、紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された公園で、平安朝式庭園が再現されている。 |
紫式部公園には、十二単衣をまとった金色の紫式部像が置かれている。 |
『源氏物語』の宇治十帖・浮舟の巻には、 「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを・・・」 とある。 宇治から帰京する浮舟の母が、 「たとえあなたが、遠い武生の国府のような所へ行ってしまったとしても、こっそりとお伺いしましょう・・・」 と浮舟を慰めている場面。 手習の巻では、 浮舟を救った比叡山の横川の僧都の母・大尼君が 「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」 と口ずさんでいる。 |
福井県越前市本多1-3-1 JR武生駅から徒歩10分 |
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