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逢坂関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。 東海道と東山道(中山道)の道筋にあたるため古代から交通の要所とされた。 ただ、関の位置については諸説あるが、詳しいことは明らかになっていない。 |
長安寺は逢坂の関付近にあったという関寺の霊跡。 関寺の霊牛と結縁するため藤原道長・源倫子・藤原頼通・藤原教通が参拝したことで、逢坂の関は関寺詣で大賑わいとなったのだという。 |
旧東海道沿いの閑栖寺にある逢坂関の道標。 |
閑栖寺には牛車が通る車石が復元されている。 |
石山寺の涅槃会に詣でた赤染衛門は、逢坂の関を越えると浜に雪が深く積もっていて、どこだかわからなかったのだとか。 |
平安時代に流行した石山詣では、逢坂の関を越えて打出浜から舟を使った。 |
清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~ |
清少納言は、藤原行成がよこした文に対して 「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」 と詠んでいる。 夜が明けないうちに、鶏の鳴きまねをして門を開けさせようとしても、逢坂の関は開きません(あなたには逢いません)。 |
泉涌寺には、この歌の碑が建てられている。 |
清少納言の歌~夜をこめて…藤原行成との贈答歌・逢坂の関~ |
父の藤原為時に同行して越前国へ下向する紫式部は、逢坂の関を越えて大津に入り、打出浜から船出している。 |
湖西を通って塩津浜へ向かった紫式部は、三尾崎で 「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも」 と詠んだのだという。 近江の厳島と呼ばれる白鬚神社には、紫式部歌碑が建てられている。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
塩津浜に上陸した紫式部は、塩津山(深坂峠)を越えて敦賀に入り、敦賀から木ノ芽峠を越えて越前国府のある武生へ向かった。 紫式部が越前国に下向したことを記念して整備された紫式部公園には、金色の紫式部像が置かれている。 |
1011年(寛弘8年)、紫式部の弟藤原惟規は越後守となった父為時に同行。 しかし、逢坂の関に至るころには都が恋しくなり 「逢坂の 関うちこゆる ほどもなく 今朝は都の 人ぞこひしき」 と詠んだのだという。 その後、越後に下向した惟規は間もなく亡くなった。 |
藤原惟規辞世の歌~越後で亡くなった紫式部の弟~ |
『源氏物語』~関谷の巻~で光源氏は、石山寺参詣の途中の逢坂の関で、任期を終えて妻の空蝉ととも帰京する常陸介(元伊予介)一行と出逢っている。 |
清少納言の『枕草子』には・・・ 「関は、逢坂の関・須磨の関・鈴鹿の関・岫田の関・白河の関・衣川の関」と記されている。 |
須磨の関跡碑 (神戸市:現光寺) |
関守稲荷神社 (神戸市) |
壇ノ浦の戦いで捕らえられ、源義経に護送されて鎌倉へ向かう平宗盛は、逢坂山で涙ながらに 「都をば けふをかぎりのせきみづに またあふさかの かげやうつさむ」 と詠んだのだとか。 |
宗盛は鎌倉から京へ帰る途中の篠原宿で処刑されている。 |
『義経記』によると、壇ノ浦の戦い後、源頼朝と不仲となってしまった源義経は、都を逃れ、逢坂の関を越えて大津から琵琶湖を渡って奥州平泉へ向かったのだという。 |
滋賀県大津市大谷町22 京阪電鉄京津線 「大谷」下車徒歩5分 |
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