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琵琶湖北岸の塩津浜(しおつはま)は、古代から畿内と北陸を結ぶ重要な地。 塩津港遺跡からは古代の最重要港湾であったことを裏付ける貴重な資料が発見されている。 |
越前国の敦賀に集められた北陸の貢物は塩津や海津に運ばれた。 「塩津」という地名には、北陸の塩を都へ運ぶ地(港)という意味があるのだという。 |
江戸時代には帆を挙げた丸子船が活躍。 元禄期には1400艘もの丸子船が往来し、塩津浜には20軒もの旅館が並んでいたのだという。 |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ下向。 塩津浜は紫式部が上陸した地。 |
蘆山寺は、紫式部の邸跡。 都を発った紫式部一行は逢坂の関を越えて大津へ。 大津の打出浜から船出して湖西を通って三尾崎付近に停泊した後、塩津浜に上陸している。 |
逢坂の関 |
打出浜 |
逢坂の関は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。 打出浜は、清少納言の『枕草子』・藤原道綱の母の『蜻蛉日記』・赤染衛門の『赤染衛門集』にも登場する景勝地だった。 |
白鬚神社 (白鬚神社) |
紫式部歌碑 (白鬚神社) |
高島にある白鬚神社は、近江国最古の大社。 白鬚神社の紫式部歌碑には、塩津浜へ向かう途中の三尾崎で詠んだ 「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも」 が刻まれている。 |
「かき曇り 夕だつ浪の あらければ うきたる舟ぞ しづ心なき」 (空が一面に曇り、夕立が来そうになって立つ波が荒いので、浮いている舟が落ちつかない」 この歌は、高島を発った紫式部の一行が塩津浜へ向かう途中で夕立にあったときに詠んだものらしい。 |
塩津浜に上陸した紫式部は、塩津神社で旅の安全を祈願。 塩津山(深坂峠)を越えて敦賀に入り、敦賀から木ノ芽峠を越えて越前国府のある武生へ向かったのだという。 |
「知りぬらむ 行き来にならす 塩津山 世にふる道は からきものとは」 紫式部が塩津山を越える時に詠んだ歌。 塩津街道の常夜燈の近くに歌碑がある。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
紫式部は、娘時代の2年間を父・藤原為時の任国・越前で過ごした。 越前市には紫式部公園が整備され、金色の紫式部像が建てられている。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
礒崎神社 (米原市) |
伊吹山 (米原市) |
「磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く なが思じ出づる 人やたれぞも」 この歌は紫式部が帰京の途中で詠んだとされるもの。 「磯」は琵琶湖東岸の礒崎神社が鎮座する地のことで、行きは湖西を通ったが、帰りは湖東を通って打出浜に上陸したらしい。 紫式部は帰京する際、伊吹山も詠んでいる。 「名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね」 |
紫式部歌碑 (近江八幡市) |
紫式部歌碑 (野洲市) |
「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」 この歌は沖島を望んで詠んだ歌とされる。 近江八幡市の百々神社境内と、野洲市のあやめ浜に歌碑が建てられている。 沖島は、神の島と呼ばれた琵琶湖最大の島。 |
滋賀県長浜市 JR「木ノ本駅」からバス、「塩津浜」下車 |
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