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礒崎神社(いそざきじんじゃ)は、琵琶湖の東岸の磯の地に鎮座する日本武尊を祀る社。 聖武天皇の勅命により、行基が磯山に日本武尊を祀ったことに始まるのだという。 平安末期には、都を目指す木曽義仲が戦勝を祈願。 江戸時代には、徳川家康の四天王の一人・井伊直政が築いた彦根城の守護神として崇敬された。 |
伝説によると・・・ 日本武尊は伊吹山の悪の神を討伐するため出征するが、草薙剣も持たずに出かけたため重傷を負い磯の地で亡くなったのだと伝えられる(最期の場面には諸説ある。)。 参考・・・ 日本武尊に草薙剣を与えたのは叔母の倭姫命。 礒崎神社の北にある坂田神明宮は倭姫命が2年間滞在していた地。 琵琶湖対岸の白鬚神社は倭姫命の創建と伝えられる。 |
礒崎神社前の岸辺にある烏帽子岩は、日本武尊の墓標として置かれた岩なのだとか。 男岩・女岩の2つの岩がひとつに重なっているところから、『結びの岩』とも呼ばれている。 |
「磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十の港に 鶴さはに鳴く磯崎」 (磯の崎を漕ぎめぐっていくと、近江の海には多くの港々に鶴がたくさん群れ鳴いている) 『万葉集』に載せられている高市黒人(たけちのくろひと)の歌。 古代の磯崎は琵琶湖に突き出た半島の先端だったため、舟でなければ行けなかった。 |
「磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く なが思じ出づる 人やたれぞも」 (磯の浜のものかげで私と同じ心で鶴が鳴いている・・・思い出しているのは誰) この歌は、紫式部が磯の浜の陰で鶴が泣いているのを見て詠んだもの。 996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ下向。 翌年秋から翌々年の春にかけて帰京するが、その際に詠んだ歌とされている(帰京の時期については諸説ある。)。 行きは打出浜から船出して湖西を通って塩津浜に上陸して越前武生へ向かったが、帰りは湖東を通って打出浜に上陸したらしい。 |
紫式部は湖上から見た伊吹山も詠んでいる。 「名に高き 越の白山 ゆきなれて 伊吹の嶽を なにとこそ見ね」 (名高い越の国の白山の雪を見馴れているので、伊吹山の雪など何てことない・・・) |
さらに南下した紫式部は、奥津嶋神社が鎮座する沖島を望んで、 「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」 と詠んだ。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
紫式部は、娘時代の2年間を父・藤原為時の任国・越前で過ごした。 越前市には紫式部公園が整備され、金色の紫式部像が建てられている。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
建部大社は、116年(景行天皇46年)に日本武尊の妃・布多遅比売命が日本武尊を「建部大神」として祀ったのが始まり。 1160年(永暦元年)、前年の平治の乱で平清盛に敗れ伊豆国へ流罪となった源頼朝が参詣。 頼朝は、1185年(元暦2年)に平家を壇ノ浦で滅ぼし、1189年(文治5年には奥州藤原氏を滅ぼして天下を統一。 そのため、建部大社は出世開運の神として信仰を集めてきたのだとか。 |
滋賀県米原市磯2484 |
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