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奥津嶋神社(おきつしまじんじゃ)は、琵琶湖の東岸・沖島に鎮座する社。 712年(和銅5年)、藤原不比等によって創建されたと伝えられ、『延喜式神名帳』に記載された名神大社とされる。 名神は、神々の中でも霊験が著しいとされる神のこと。 祭神は、宗像三女神の一人・多紀理比売命(たきりびめ)。 |
奥津嶋神社の上には山神神社。 沖島は、江戸時代から昭和40年代まで採石場として栄え、その石は琵琶湖疎水や東海道線の工事に使われたのだという。 山神神社は採石作業者の安全を祈って建立された社。 |
厳島神社は沖島の東にある奥津嶋神社の境内社。 祭神は、宗像三女神の一人・市寸島比売(いちきしまひめ)。 古くは弁天社と呼ばれ、琵琶湖の船の往来を守る神、雨乞いの神として信仰されてきた社。 天台宗の寺院だった頃に彦根藩士の戸次権左衛門と源新平が京の仏工に天女像を彫刻させて安置したのだ伝えられている。 |
「おいつしま 守りの神や いますらん 波もさわがぬ わらわえの浦」 (おいつ島の神が諌めたのだろう。わらはべの浦の波が穏やかなのは・・・) 父の藤原為時とともに越前国に下向していた紫式部が帰京するときに詠んだとされる歌。 |
紫式部歌碑 (百々神社) |
紫式部歌碑 (あやめ浜) |
996年(長徳2年)、紫式部は越前守となった父藤原為時に同行して越前国へ下向。 翌年秋から翌々年の春にかけて帰京する(帰京の時期については諸説ある。)。 行きは打出浜から船出して湖西を通って塩津浜に上陸して越前武生へ向かったが、帰りは湖東を通って打出浜に上陸したらしい。 礒崎神社が鎮座する磯の浜を通った時も 「磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く なが思じ出づる 人やたれぞも」 と詠んでいる。 |
紫式部公園 (越前市) |
紫式部像 (紫式部公園) |
紫式部は、娘時代の2年間を父・藤原為時の任国・越前で過ごした。 越前市には紫式部公園が整備され、金色の紫式部像が建てられている。 |
一条天皇に漢詩を奏上して越前守となった藤原為時 宋人と詩を唱和した紫式部の父・藤原為時 |
宗像三女神を祀る社の総本社は福岡県の宗像大社。 航海安全の神として信仰されてきた宗像大社は、沖ノ島の沖津宮・筑前大島の中津宮・九州本土の辺津宮からなる神社。 その特徴は、三宮は一直線上にあること。 琵琶湖の沖島の奥津嶋神社は、西岸に鎮座する白鬚神社と日牟禮八幡宮の中間にあって、この三社は一直線上にある。 |
白鬚神社 |
紫式部歌碑 (白鬚神社) |
琵琶湖の西岸・高島にある白鬚神社は、近江国最古の大社。 白鬚神社の紫式部歌碑には、塩津浜へ向かう途中の三尾崎で詠んだ 「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも」 が刻まれている。 |
日牟禮八幡宮 |
大嶋神社・ 奥津嶋神社 |
日牟禮八幡宮は、大嶋大神を祀ったことに始まるとされる社。 大嶋大神(大嶋神社)は、津田山東麓の奥津嶋神社に合祀されたといわれる。 |
沖島は、琵琶湖最大の島。 琵琶湖を行き交う舟人が航行の安全を祈願した神の島。 かつては無人島だったが・・・ |
現在は日本で唯一の湖に人が暮らす島。 淡水湖の島に人が住むのは世界的にも珍しいことらしい。 人が住み始めたのは保元・平治の乱で敗れた源氏の落武者7人が流れ着いたことに始まるのだという。 |
奥津嶋神社の神紋は、源氏の家紋と同じ笹竜胆(ササリンドウ)。 沖島小学校の校章もササリンドウ。 |
沖島の対岸(琵琶湖西岸)の堅田の人々は、かつて湖族(堅田衆)と呼ばれ、堅田が下鴨神社の御厨であったこともあって、琵琶湖最大の自治都市を築いていた。 現在でも葵祭の前日には、下鴨神社に鮒を献上する「堅田供御人鮒奉献奉告祭」が行われている。 しかし、1468年(応仁2年)、比叡山延暦寺の焼き討ちに遭った堅田は焼け野原に。 湖族(堅田衆)は沖島に逃れたのだという。 |
堅田の本福寺は・・・ 『源氏物語』の「宇治十帖』の登場人物・横川の僧都のモデルとされる恵心僧都源信が創建した浮御堂の近くにある寺院。 中世の堅田は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の御厨となり、湖族(堅田衆)と呼ばれた堅田の人々には、湖上の自由通行権が与えられていた。 鎌倉時代末期には本福寺が創建され、寛正の法難で堅田に逃れてきた蓮如が堅田衆からの支持を得て、「堅田門徒」と称せられるほどの勢力を得たのだという。 |
滋賀県近江八幡市沖島町188 沖島へは堀切港から通船で。 |
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