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「堅田供御人行列」は 、葵祭の前日(5月14日)に琵琶湖畔の堅田の地から京都の下鴨神社に鮒を献上する行列。 正式名は「堅田供御人鮒奉献奉告祭」。 平安時代、下鴨神社の社領だった堅田の町衆が琵琶湖の魚を献上したことが始まり。 第二次世界大戦後に中断してしまったが、1990年(平成2年)に再興された。 |
伊豆神社 |
神田神社 |
かつて堅田の人々は湖族(堅田衆)と呼ばれ、堅田が下鴨神社の御厨であったこともあって、湖上の自由通行権が与えられ、琵琶湖最大の自由都市を築いていた。 堅田の伊豆神社は、892年(寛平4年)、比叡山の尊意が伊豆の三嶋大明神を勧請した社で、947年(天暦3年)には下鴨神社が勧請されて併設(神田神社)。 「供御人行列」は、5月14日に神田神社と伊豆神社で祈祷を受けて堅田地域を巡行した後、京都の下鴨神社へ移動。 |
午前10時、行列が糺の森を通って下鴨神社の本殿に到着すると神事が行われ、鮒が献上される(堅田供御人鮒奉献奉告祭)。 |
本福寺 |
沖島 |
室町時代、堅田では蓮如が布教活動を行い、堅田衆からの支持を得て「堅田門徒」と称せられるほどの勢力を得ていた。 しかし、延暦寺に焼き討ちされ(堅田大責)、堅田門徒は沖島に逃げ延びたのだという。 本福寺は蓮如が拠点とした寺。 沖島は湖上を行き交う舟人が航行を安全を祈願した神の島で、宗像三女神を祀る奥津嶋神社が鎮座。 |
賀茂祭(葵祭)は、賀茂神社の祭礼。 葵祭の行列は「路頭の儀」と呼ばれています。 京都御所から王朝絵巻さながらの行列が下鴨神社・上賀茂神社へと向かいます。 |
賀茂別雷神社 (上賀茂神社) |
賀茂御祖神社 (下鴨神社) |
賀茂神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。 古くより朝廷から崇敬され、794年(延暦13年)の平安遷都後は山城国の一之宮となり、王城鎮護の神として一層崇敬され、802年(大同2年)には正一位の神階を受け、賀茂祭(葵祭)は勅祭とされました。 石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)と賀茂祭(葵祭)は三大勅祭です。 |
斎王が賀茂祭を主宰していた頃の御禊の儀は賀茂川で行われていたようですが、現在の斎王代の御禊は上賀茂神社と下鴨神社で1年おきに交代で行われています。 |
橋殿 (上賀茂神社) |
井上社 (下鴨神社) |
上賀茂神社の御禊の儀は橋殿の下を流れる御手洗川で、下鴨神社の御禊の儀は井上社前の御手洗川で行われます。 |
賀茂祭を主宰する斎王は、4月の酉の日、賀茂斎院(斎王の御所)を出御して一条大宮で勅使の行列と合流。 下鴨神社と上賀茂神社を参拝し、翌日に賀茂斎院に戻ったのだといいます。 賀茂斎院は、紫野にあったことから紫野斎院とも呼ばれます。 |
「埒が明く」「埒が明かない」という言葉は、上賀茂神社の競馬会から生まれた・・・ |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府政所の別当だった大江広元は、後白河法皇の法住寺殿を修繕するため在京した時、賀茂祭に供奉したらしい。 |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経は、上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。 |
申餅 |
みたらし団子 |
かつての葵祭では、申の日に申餅を供え、無病息災を祈願したのだといいます。 「みたらし団子」は、下鴨神社の御手洗池の底から湧き出る水泡をかたどったのだといわれています。 |
清少納言は『枕草子』に、斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記しています。 |
清少納言の父清原元輔は、奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。 |
藤原道綱母は、賀茂祭見物の際、藤原時姫に連歌対決を挑んだ・・・ |
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