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『蜻蛉日記』によると・・・ 966年(康保3年)4月13日、作者の藤原道綱母は賀茂祭の見物に出かけました。 すると、藤原兼家の正妻時姫も来ていたので、通りの向かいに牛車を停めました。 行列が通るまで時間があるので、近くにあった橘の実と葵の葉をひっかけて 「あふひとか聞けどもよそにたちばなの」 と詠むと、しばらくして時姫は 「きみがつらさを今日こそは見れ」 と返します。 藤原道綱母も藤原兼家の妻。 時姫とは妻としての地位を争いますが、時姫を超すことは出来ませんでした。 賀茂祭でのやりとりは、和歌であれば時姫に勝つことができると考えて挑んだことなのでしょう。 『蜻蛉日記』には、自分が詠んでから 「やや久しうありて」 時姫が返してきたとあります。 わざわざ、時間がかかったことを書いています・・・ この連歌の戦いは、道綱の母の勝利だったようです。 |
藤原時姫と藤原道綱母〜蜻蛉日記:兼家の愛人と和歌〜 |
賀茂祭(葵祭)は、賀茂神社の祭礼。 |
賀茂別雷神社 (上賀茂神社) |
賀茂御祖神社 (下鴨神社) |
賀茂神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の総称。 古くより朝廷から崇敬され、794年(延暦13年)の平安遷都後は山城国の一之宮となり、王城鎮護の神として一層崇敬され、802年(大同2年)には正一位の神階を受け、賀茂祭(葵祭)は勅祭とされました。 石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・春日大社の例祭(春日祭)と賀茂祭(葵祭)は三大勅祭です。 |
「埒が明く」「埒が明かない」という言葉は、上賀茂神社の競馬会から生まれた・・・ |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府政所の別当だった大江広元は、後白河法皇の法住寺殿を修繕するため在京した時、賀茂祭に供奉したらしい。 |
『吾妻鏡』によると、鎌倉幕府四代将軍の九条頼経は、上洛した際、賀茂祭を見物したらしい。 |
葵祭前日(5月14日)、琵琶湖西岸・堅田から下鴨神社へ鮒が献上される。 |
申餅 |
みたらし団子 |
かつての葵祭では、申の日に申餅を供え、無病息災を祈願したのだといいます。 「みたらし団子」は、下鴨神社の御手洗池の底から湧き出る水泡をかたどったのだといわれています。 |
清少納言は『枕草子』に、斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記しています。 |
清少納言の父清原元輔は、奉幣使として加わった賀茂祭で落馬。 冠が滑り落ちて禿げ頭を晒してしまったのだとか。 |
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