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『蜻蛉日記』には、藤原時姫と藤原道綱母の夫藤原兼家が愛人をつくった時のことが書かれている。 947年(天暦10年)5月、兼家が町の小路の女を愛人にして通っていたときのこと。 道綱の母は時姫に、 「そこにさへかるといふなる真菰草いかなる沢にねをとどむらね」 と詠んで贈った。 貴方のところにも帰らないとは、どこに行っているのでしょう・・・ 時姫を慰めようとしているようにも感じるが、時姫はこう返した。 「真菰草かるとはよどの沢なれやねをとどむてふ沢はそことか」 あなたのところに行っていると聞いてますよ・・・ 時姫は、兼家が町の小路の女のもとに通っていることは百も承知。 わざととぼけた歌を返したのだとか・・・ 9月になると兼家は、町の小路の女のとりこになってしまう。 子どもが沢山いる時姫は「私以上に気の毒」と思った道綱の母。 「ふく風につけてもとはむささがにのかよひし道は空に絶ゆとも」 秋風に託してお手紙を差し上げます。その風で兼家の訪れが途絶えているとしても・・・ という歌を贈ると、時姫は、 「色かはるこころと見ればつけてとふ風ゆゆしくもおもほゆるか」 人の心は移ろいやすいもの、不吉な気がします・・・ と返したのだとか。 |
町の小路の女は、兼家の子を産むが、しばらくして死んでしまったのだという。 そして、兼家の愛も町の小路の女から離れてしまったらしい。 道綱の母は、 「あの女を苦しめてやりたいと思っていたが、このようなことになって・・・ 私以上にあの女が嘆いていると思うと、胸がすく」 と思ったのだとか。 |
藤原時姫と藤原道綱母は、賀茂祭見物の時に連歌対決もしているらしい・・・ |
賀茂祭の連歌対決~蜻蛉日記:藤原時姫と藤原道綱母~ |
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