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春日大社は、全国にある約3000の春日神社の総本社。 710年(和銅2年)、都が平城京に遷されると鹿島神宮(常陸国:茨城県)から藤原氏の氏神である武甕槌命が御蓋山(みかさやま・三笠山)山頂浮雲峰に迎えられた。 後の768年(神護景雲2年)、左大臣藤原永手が御蓋山中腹に社殿を造営し、香取神宮(下総国:千葉県)から経津主命、枚岡神社(河内国:大阪府)から天児屋根命・比売神を迎えて祀ったのが春日大社の始まり。 藤原氏の氏寺興福寺との関係は深く、興福寺の南円堂の不空絹索観音は、春日大社の本地仏とされている。 11世紀末頃から始まった興福寺による強訴は、春日大社の神霊を移した榊の木を奉じて上洛するものだったという。 3月の春日祭は、石清水八幡宮の例祭(石清水祭)・上賀茂神社と下鴨神社の例祭(賀茂祭(葵祭))とともに三大勅祭のひとつ。 |
第一殿:武甕槌命 (たけみかづちのみこと) 第二殿:経津主命 (ふつぬしのみこと) 第三殿:天児屋根命 (あめのこやねのみこと) 第四殿:比売神 (ひめがみ) |
鹿島神宮から迎えられた祭神の武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、白鹿に乗ってやって来たのだという。 そのため、奈良公園の鹿は「神鹿」として大切に保護され、国の天然記念物とされている。 |
紫式部と同じ細殿に住む隣の局の中将が、紫式部に贈った歌に御蓋山(三笠山)が詠まれている。 |
紫式部の歌~三笠山・・・隣の局の中将との贈答歌~ |
春日大社の燈籠は、石燈籠約2000基、釣燈籠約1000基の合計約3000基。 その大半は、崇敬者から寄進されたもの。 8月の中元万燈籠では、全燈籠に灯がともされる。 |
平安時代、藤氏長者や摂関が参詣することを春日詣と呼んだ。 917年(延喜16年)に藤氏長者だった藤原忠平が参詣したのが最初。 989年(永祚元年)には、摂政の藤原兼家が次女の詮子を生母とする一条天皇の参詣を実現させている(春日行幸)。 一条天皇の父・円融法皇は反対したが、詮子の強い意向で実現したのだという。 |
斎女(いつきめ)は、春日大社や大原野神社に奉仕した未婚の女性。 藤原氏が、伊勢神宮に奉仕する斎宮や上賀茂神社・下鴨神社に奉仕する斎院にならって置いたもの。 春日祭などの重要な祭礼の際の神事に奉仕したのだという。 |
清少納言は『枕草子』に素晴らしい神として・・・ 松尾大社・石清水八幡宮・大原野神社・春日大社・平野神社・水分神社・上賀茂神社・下鴨神社・伏見稲荷大社を挙げている。 |
春日大社に伝えられる「鼉太鼓」(だだいこ)は、源頼朝の寄進と伝えれる屋外の舞楽演奏用の太鼓。 高さ6.5メートル、重さ約2トンという大きなもので重要文化財に指定されている。 興福寺や東大寺でも使用され、1975年(昭和50年)まで「春日若宮おん祭」に使用されていたのだという。 |
『吾妻鏡』によると・・・ 1187年(文治3年)、源頼朝に反逆して逃亡した源義経は、吉野山に逃れた後、比叡山や興福寺に匿ってもらったのだという。 春日大社に伝わる国宝の「義経籠手」は、義経を匿った興福寺の聖弘(しょうこう)の住坊(勧修坊)に残されていたものと伝えられている。 日本の甲冑史上で最も豪華とされる国宝の「赤糸威大鎧-竹虎雀飾」(あかいとおどしおおよろい-たけとらすずめかざり)も義経所用のものと伝わる・・・ |
源義経を匿った興福寺と鎌倉に呼び出された聖弘 |
春日大社の神域には、61の摂社・末社が祀られている。 特に若宮が鎮座する南側は、人生で遭遇する難所を守ってくれる神々が鎮まり、参詣者の神めぐりの場所。 |
大原野神社は、桓武天皇が長岡京に遷都した際に、皇后の藤原乙牟漏が春日大社の神霊を勧請したことに始まる社。 京春日とも呼ばれ、藤原氏に崇敬され、紫式部の『源氏物語』にも登場する。 |
吉田神社は、藤原山蔭が春日大社を勧請して創建。 一条天皇が即位すると大原野神社と並んで崇敬された。 藤原道長の法成寺と吉田神社を崇めることは興福寺と春日大社を崇めるのと同じともいわれたらしい。 |
奈良市春日野町160 JR大和路線・近鉄奈良線「奈良駅」から奈良交通バス(春日大社本殿行) 「春日大社本殿」下車すぐ 奈良交通バス(市内循環外回り)「春日大社表参道」下車、徒歩約10分 |
春日大社は世界文化遺産 (古都奈良の文化財) |
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