紫式部「光る君へ」


清少納言
藤原定子に仕えた
『枕草子』の作者


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清少納言



 清少納言(せい しょうなごん)は、平安時代中期の作家・歌人。

 『後撰和歌集』の撰者・清原元輔の娘で、本名は清原諾子(きよはらのなぎこ)ともいわれる。

 清原氏は、天武天皇五世孫の清原有雄(有雄王)を氏祖とする一流。

 女房名の「清少納言」の「清」は清原からのものだが、「少納言」の由来は不明。

 誕生は966年(康保3年)頃。


 大河ドラマ「光る君へ」では「ききょう」という名で登場。



奥州藤原氏の祖・藤原清衡は、有雄流の清原武貞氏の養子となり奥州を平定している。



平安宮内裏昭陽舎跡
リンクボタン平安宮内裏昭陽舎跡

 清少納言の父・清原元輔は、昭陽舎で『後撰和歌集』の編纂を行った。



賀茂祭で落馬した清少納言の父清原元輔





~藤原定子との7年間~

 993年(正暦4年)頃から、一条天皇の中宮・藤原定子に仕えるようになる。

 定子に気に入られた清少納言は、手厚くもてなされていたが、

 やがて・・・

 995年(長徳元年)、定子の父で関白だった藤原道隆が死去し、叔父の藤原道長が権力を強め、翌年には兄の伊周が左遷されてしまう(長徳の変)。

 清少納言も「道長のスパイ」と噂され、引き篭もってしまうが、定子は戻ってきて欲しいという願いを込めて上質な紙を贈ったのだという。

 これをきっかけに書き始められたのが『枕草子』なのだとか・・・

 しかし・・・

 1000年(長保2年)、道長の娘彰子が一条天皇の中宮となる中、定子は一条天皇の第二皇女・媄子内親王を出産するが、翌日に崩御。

 清少納言も宮中を去ったのだという。



リンクボタン清少納言の歌~雪の山を作ったときに詠んだ歌~

リンクボタン『枕草子』~雪のいと高う降りたるを・香炉峰雪簾撥看~

リンクボタン藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長



清少納言が描いた桜は、
いつも満開!
それは、定子が桜だから!


リンクボタン桜は中宮・藤原定子!~清少納言が描いた桜は、散らない桜!~




~平安宮~

平安宮
リンクボタン平安宮
(大内裏)
平安宮内裏跡
リンクボタン内裏跡


 平安宮は、平安京の宮城。

 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。



大極殿跡
リンクボタン大極殿跡
(朝堂院正殿)
平安宮豊楽院跡
リンクボタン豊楽殿跡
(豊楽院正殿)


 平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。

 大極殿は、朝堂院の正殿。

 豊楽殿は、豊楽院の正殿。


 清少納言が仕えた藤原定子は、平安宮の登華殿を居所としていた。




命婦の御許





~藤原義懐と清少納言~

 まだ定子に仕える前の986年(寛和2年)6月18日、清少納言は小白河の藤原済時の屋敷(小白河殿)で行われた法華八講を聴聞したらしい。

 法華八講は、6月18日から21日まで行われたが、それは花山天皇と義懐が出家する直前のこと(寛和の変)。

 『枕草子』には・・・

 のちに関白となる藤原道隆藤原義懐が素晴らしかったことや、義懐と清少納言が言葉を交わしたことなどが記されている。



(参考)
白河院・法勝寺址
リンクボタン白河殿
(白河院址・法勝寺址)

 白河の地には、藤原良房の別荘「白河殿」があった。

 摂関家が継承し、藤原道長藤原頼通も所有した。

 道長の時代には、藤原済時藤原公任も白河に別業を設け「小白河殿」と呼ばれていたらしい。

 頼通の子師実の代に白河天皇に献上されて白河院となり、白河院には法勝寺が建立されている。





~道隆の追悼と藤原斉信~

 『枕草子』によると、定子は毎月10日に道隆の供養をしていたのだという。

 9月10日の追悼では、清水寺の清範の法話に皆が感動。

 その後、酒を飲んだり、詩をそらんじたりしていると・・・

 蔵人頭の藤原斉信が「月秋と期して身いづくか」と朗詠し、とても素晴らしかったのだとか。

 (秋の月を愛でた人はどこに行ってしまったのだろう?)

 清少納言は、994年(正暦5年)に斉信が蔵人頭になった頃から交流があったのだという。



リンクボタン藤原斉信が詠じた月與秋期而身何去~中宮定子と清少納言:枕草子~





~大斎院サロン~

 皇后・定子や中宮・彰子の後宮サロンと並びたっていたのが選子内親王の大斎院サロン。

 清少納言は『枕草子』に理想的な宮仕え先として、内裏・后宮・斎院御所(賀茂斎院)を挙げている。

 紫式部は『紫式部日記』で、弟の藤原惟規の恋人・斎院中将の手紙を読んで批判もしているが・・・

 選子内親王の人柄や、斎院御所が風雅で神々しさのあることは認めている。 





~結婚と子~

 清少納言は、二度結婚しているらしい。

 一人目の夫は、陸奥守・橘則光で、越中守となった則長を産んでいる。

 997年(長徳3年)の賀茂祭の日に起こった花山法皇の濫行事件では、検非違使丞だった則光花山法皇との交渉に当たった。

 二人目の夫は、摂津守・藤原棟世で、娘の小馬命婦は藤原彰子に仕えている。

 『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルともいわれる藤原実方と交際または結婚していたという説もあるが定かではない。

 993年(正暦4年)11月に藤原定子が開いた五節では、実方と歌を贈答しているらしい。



リンクボタン清少納言の歌~誰が伊吹の里に行くなどと言ったの?~

リンクボタン藤原実方の歌~伊吹山のさしも草のように燃える思い~

リンクボタン清少納言の歌~藤原実方が陸奥国へ下向する際の歌~

リンクボタン陸奥守に左遷の藤原実方と蔵人頭に昇進の藤原行成の逸話

リンクボタン藤原実方と清少納言~恋人だった?結婚していた?~





~藤原公任との連歌~

 「空寒み 花にまがへて 散る雪に すこし春ある 心地こそすれ」

 この歌は、藤原公任から贈られた下の句に清少納言が上の句をつけて完成させたもの。

 知識人の公任がどう思うか心配だったようだが、評判は上々だったらしい。



リンクボタン清少納言の歌~藤原公任との連歌:白楽天の詩を踏まえて~

白氏文集~『枕草子』・『源氏物語』に影響を与えた白楽天の詩文集~





~清少納言と赤染衛門~

 赤染衛門は、藤原道長の正室・源倫子や娘の彰子に仕えた女流歌人。

 清少納言が父の清原元輔の屋敷に住んでいた頃、大雪が降って屋敷の囲いが倒れ掛かっていたのを知らせてあげたらしい。





京都:誓願寺
リンクボタン誓願寺

 清少納言の墓は各地にあるようだが・・・

 清少納言・和泉式部らが信仰して女人往生の寺と呼ばれた誓願寺で往生したともいわれる。





清少納言歌碑
リンクボタン清少納言歌碑
(泉涌寺)

 藤原定子の才色兼備ぶりを書いた『枕草子』は、1001年(長保3年)には完成させたのだという。

 宮中を去った後は、一時、再婚相手の藤原棟世の任国である摂津に下ったらしい。

 その後の詳細は不明だが、晩年は、定子が眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。

 藤原公任の『公任卿集』には、清少納言が東山月輪に返り住んだことが記され、

 「ありつゝも 雲間にすめる 月の輪を いく夜ながめて 行きかえるらむ」

 と詠んでいる。

 東山月輪に建てられた泉涌寺には清少納言の歌碑が建てられている。

 「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」

 この歌は、藤原行成がよこした文に対して詠んだもので、

 「夜が明けないうちに、鶏の鳴きまねをして門を開けさせようとしても、逢坂の関は開きません(あなたには逢いません)」

 ということらしい。 



リンクボタン清少納言の歌~夜をこめて…藤原行成との贈答歌・逢坂の関~



清少納言が描いた桜は、
いつも満開!
それは、定子が桜だから!


リンクボタン桜は中宮・藤原定子!~清少納言が描いた桜は、散らない桜!~

リンクボタン春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~




一条天皇皇后定子 鳥戸野陵
リンクボタン鳥戸野陵

 1000年(長保2年)12月16日の明け方に崩御した定子は、六波羅蜜寺に安置された後、27日、鳥戸野(鳥辺野)へ葬送された。

 本人の希望により土葬とされたのだという。



清少納言供養塔
リンクボタン清少納言供養塔
(大津市:慈眼堂)

 清少納言が詠んだ逢坂の関を越えると近江国。

 慈眼堂は、徳川家康の側近で比叡山の座主を勤めた天海の廟所。

 歴代天台座主の墓所には、徳川家康や清少納言・和泉式部紫式部の供養塔も建てられている。



今熊野観音寺
リンクボタン今熊野観音寺

 清少納言の父・清原元輔の邸宅は、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近にあったといわれる。

 定子の鳥辺野陵は、今熊野観音寺の北にある。



清少納言社
リンクボタン清少納言社
(車折神社)

 清少納言と同族の清原頼業を祀る車折神社には、清少納言を祀る社が建てられている。










~賀茂祭の還さ、いとをかし~


賀茂斎院跡
リンクボタン紫野斎院
(檪谷七野神社)

 清少納言は『枕草子』に、賀茂祭を主宰する斎王が上賀茂神社から紫野の斎院に帰る行列は、本当に素晴らしいと記している。

 清少納言の時代の斎王は選子内親王


賀茂祭の還御の行列「いとをかし」



上賀茂神社
リンクボタン賀茂別雷神社
(上賀茂神社)
下鴨神社
リンクボタン賀茂御祖神社
(下鴨神社)


 賀茂祭(葵祭)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭礼。



雲林院
リンクボタン雲林院
常徳寺
リンクボタン常徳寺


 清少納言は、斎王が斎院に帰るのを雲林院や知足院(現在の常徳寺)前で見物したのだという。 



葵祭





~心ちよげなるもの~

  清少納言は「心ちよげなるもの」として、「御霊会の馬長」・「御霊会のふりはた取り持たる者」を挙げている。



リンクボタン心ちよげなるもの 御霊会の馬長~清少納言の『枕草子』と祇園祭~


祇園祭





~御嶽詣をした藤原宣孝~

 『枕草子』には、紫式部の夫・藤原宣孝についても書かれている。


リンクボタン『枕草子』:藤原宣孝の逸話~清少納言と紫式部~



金峯山寺蔵王堂
リンクボタン金峯山寺
吉野山:金峯神社
リンクボタン金峯神社


 御嶽詣は、吉野の金峯山に参拝すること。

 藤原道長は、金峯山(山上の蔵王堂)に自らが書写した経を埋納。

 その御利益で娘の彰子が懐妊できたのだとか・・・



藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~

国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~





~初瀬詣~

長谷寺
リンクボタン大和国長谷寺
(奈良県桜井市)

 西国観音三十三所巡礼の根本道場の長谷寺には、紫式部赤染衛門・清少納言・藤原道綱の母菅原孝標の娘などが参詣している。



~時の鐘と時の貝~

長谷寺鐘楼
リンクボタン長谷寺鐘楼

 長谷寺の鐘は午前6時と正午の二度撞かれ、正午には法螺貝も吹かれる。

 そして、夜8時の法螺貝で長谷寺の時報は終わる。

 清少納言は『枕草子』に

 「師の坊に、男ども、女、童などみなゆきて、つれづれなるに、傍に貝を 俄かに吹き出でたるこそ、いみじう驚かるれ」

 と記している。



リンクボタン清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~





~さわがしきもの~

清水寺
リンクボタン清水寺

 清少納言は『枕草子』の「さわがしきもの」の中で、十八日の観音菩薩の縁日に、清水寺へ庶民が集まってくることを騒々しいと表現している。



リンクボタン清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~

リンクボタン藤原定子の歌~清水寺に参籠している清少納言に贈った歌~





~近うて遠きもの~

九十九折参道
リンクボタン九十九折参道
(鞍馬寺)

 鞍馬寺九十九折参道は、清少納言が『枕草子』に、

 「近うて遠きもの くらまのつづらおりといふ道」

 と記した坂道。





~寺は石山寺・仏は如意輪観音~

石山寺
リンクボタン石山寺

 『枕草子』には、寺は・・・

 壺坂寺・笠置寺・法輪寺・霊山寺・石山寺・粉河寺・志賀寺と記されている。

 そして、仏は如意輪観音・・・ともある。

 石山寺の本尊は如意輪観音



リンクボタン清水詣・石山詣・初瀬詣~平安貴族が信仰した清水寺・石山寺・長谷寺~





~猶めでたきこと~

石清水八幡宮
リンクボタン石清水八幡宮

 『枕草子』には、猶めでたきこととして、石清水八幡宮の臨時祭について記されている。





~うらやましげなるもの~

伏見稲荷大社
リンクボタン伏見稲荷大社

 伏見稲荷大社背後の稲荷山に登って巡拝することを「お山する」という。

 『枕草子』には、

 「決心して稲荷神社に参拝すると、自分は中の社のあたりで苦しくなっているのに、少しも苦しそうもなく先に行く参拝者がいるのは凄いこと」

 と記されている。



リンクボタン初午に伏見稲荷を参拝した清少納言~枕草子:うらやましげなるもの~





~神は・・・~

松尾大社
リンクボタン松尾大社
大原野神社
リンクボタン大原野神社


春日大社
リンクボタン春日大社
平野神社
リンクボタン平野神社


吉野山:吉野水分神社
リンクボタン吉野水分神社


 『枕草子』には素晴らしい神として・・・

 松尾大社石清水八幡宮大原野神社春日大社平野神社水分神社上賀茂神社下鴨神社伏見稲荷大社が挙げられている。




時代祭
リンクボタン清少納言と紫式部
(時代祭)










紫式部


紫式部と越前国


源氏物語 光源氏


紫式部の京都 平安宮~源氏物語ゆかりの地~


琵琶湖で紫式部・源氏物語 源氏物語~須磨・明石~


宇治十帖~紫式部『源氏物語』~ 源融・藤原実方ゆかりの陸奥国


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紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~



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