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清少納言が一条天皇の中宮・藤原定子に仕えるようになったのは993年(正暦4年)頃。 その2年後の995年(長徳元年)4月10日、定子の父・道隆が薨去。 『枕草子』によると、定子は、毎月10日に道隆の供養をしていたのだという。 |
『枕草子』180段 「故殿の御ために」によると・・・ 9月10日の供養は、職御曹司で上達部、殿上人が大勢出席して営まれた。 清水寺の清範が講師を勤めたのだが、その説経がとても悲しいものだったので、特に「もののあわれ」(無常観的な哀愁)を感じていない若い女房たちまでが泣いたらしい。 供養の後、酒を飲んだり、詩をそらんじたりしていると・・・ 藤原斉信が 「月、秋と期して、身いづくか」 (秋の月を愛でた人はどこに行ってしまったのだろう?) という歌を朗詠。 清少納言は、 「どうしてこのような素晴らしい歌を思いだされるのだろう」 と思ったのだとか。 そして、定子の所に行くと、定子は 「素晴らしい歌です。 今日のために詠んで下さったなのでしょう」 と感想を述べ、清少納言が 「私もとても素晴らしい歌だと思いました」 と申し上げると、定子は、 「貴女が素晴らしいという歌なのなら、喜びが更に大きく感じられますね」 とおっしゃられたのだとか。 |
藤原斉信が朗詠した歌は、菅原道真の孫・文時の漢詩。 金谷酔花之地 花毎春匂而主不帰 南楼玩月之人 月與秋期而身何去 藤原公任の『和漢朗詠集』にも収められている。 |
説教をした清範は、興福寺の守朝の弟子。 清水寺の別当となって清水律師と呼ばれた。 文殊菩薩の化身といわれ、藤原道長が営んだ法会では、集まった百僧のために置かれていた敷物の一つに「文殊」と書かれたいた札が隠されていることを見抜いたのだとか。 |
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