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藤原定子(ふじわらのさだこ・ていし)は、関白・藤原道隆の長女(977年(貞元2年)誕生)。 母は高階成忠の娘・貴子。 紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏の母・桐壺更衣は定子がモデルともいわれる。 |
990年(正暦元年)2月23日、14歳で3歳年下の一条天皇に入内。 同年10月5日、皇后となり中宮を称した。 993年(正暦4年)頃から清少納言が仕えるようになる。 |
五節の舞姫~新嘗祭・大嘗祭で舞った舞姫と貴族~ |
平安宮 (大内裏) |
内裏跡 |
平安時代の内裏(御所)は、京都御所の西方にあった。 平安宮は、平安京の宮城。 内裏は天皇の住まいで、儀式や執務などを行う宮殿。 |
大極殿跡 (朝堂院正殿) |
豊楽殿跡 (豊楽院正殿) |
平安宮の中央には朝堂院、西に豊楽院、北東に内裏があり、それらを囲むように二官八省をはじめとする役所が建ち並んでいた。 大極殿は、朝堂院の正殿。 豊楽殿は、豊楽院の正殿。 定子が居所としたのは登華殿だったといわれる。 |
東三条院(東三条殿)は、摂関家の邸宅。 藤原詮子は東三条院で一条天皇を産み、定子は東三条院から一条天皇に入内している。 |
995年(長徳元年)4月10日、父の道隆が死去。 さらに1ヶ月後の5月8日、道隆を継いで関白となった叔父の道兼が死去。 これにより、定子の兄・伊周と、もう一人の叔父・道長が後継を争うことになるが・・・。 一条天皇の生母で道長の姉・藤原詮子が道長を強く推したことにより、一条天皇は道長の内覧を許し、9月には右大臣に任じたことで、道長が氏の長者となる。 翌年、伊周は花山法皇を射るという長徳の変を起こして失脚。 懐妊していた定子は内裏を出て里第の二条宮で出家。 この年の10月、伊周と定子の母・貴子が死去している。 |
藤原兼家 |
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酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~ |
高階貴子の歌~明石にいる息子・藤原伊周を思って詠んだ歌~ 藤原伊周の歌~播磨国左遷と栄花物語「浦々の別」~ |
桜は中宮・藤原定子!~清少納言が描いた桜は、散らない桜!~ 春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~ |
清少納言の『枕草子』によると、定子は毎月10日に道隆の供養をしていたのだという。 9月10日の追悼では、清水寺の清範の法話に皆が感動。 その後、酒を飲んだり、詩をそらんじたりしていると・・・ 蔵人頭の藤原斉信が「月秋と期して身いづくか」と詠い、とても素晴らしかったのだとか。 (秋の月を愛でた人はどこに行ってしまったのだろう?) これは菅原道真の孫・文時の漢詩(月與秋期而身何去)で、藤原公任の『和漢朗詠集』にも収められている。 |
藤原斉信が詠じた月與秋期而身何去~中宮定子と清少納言:枕草子~ |
藤原公任の和漢朗詠集が国宝に。 |
説教をした清範は、興福寺の守朝の弟子。 清水寺の別当となって清水律師と呼ばれた。 文殊菩薩の化身といわれ、藤原道長が営んだ法会では、集まった百僧のために置かれていた敷物の一つに「文殊」と書かれたいた札が隠されていることを見抜いたのだとか。 |
藤原定子の歌~清水寺に参籠している清少納言に贈った歌~ |
996年(長徳2年)12月16日、一条天皇の第一皇女・脩子内親王を出産。 翌年には、兄・伊周らの罪が許され、一条天皇は定子を再び宮中(登華殿)に迎え入れている。 999年(長保元年)11月7日には、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。 |
999年(長保元年)6月14日、内裏が焼失。 出家した定子が内裏に入ったからと噂されたのだとか。 一条天皇は一条院に遷御するが、定子は職曹司に滞在したのだという。 職曹司は仮御所として機能していた庁舎で、清少納言の『枕草子』の舞台にもなっている。 |
清少納言の歌~雪の山を作ったときに詠んだ歌~ 『枕草子』~雪のいと高う降りたるを・香炉峰雪簾撥看~ 藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 藤原定子の懐妊と藤原道長の宇治遊覧 |
1000年(長保2年)2月25日、前年一条天皇に入内していた藤原彰子(藤原道長の長女)が皇后となり中宮を称する。 このため、定子は皇后宮と呼ばれるようになる。 ここに、一人の天皇が二人の皇后を持つ一帝二后が成立し、以後、皇后の定員は2名となったのだとか・・・ |
定子は、995年(長徳元年)から越前国に滞在していた宋の商人・朱仁聡から雑物を購入しているが・・・ 1000年(長保2年)、購入代金が未払いとして訴えられている。 藤原行成が事情を聞き出すと、代金を越前国へ送ったが、朱仁聡が大宰府に移った後だったため未払いになってしまったのだという。 |
1000年(長保2年)12月15日、一条天皇の第二皇女・媄子内親王を出産するが、翌日に崩御(24歳)。 陵墓は鳥辺野陵。 前年に誕生した敦康親王は、藤原行成の奏上により藤原彰子が養母となり、生まれたばかりの媄子内親王は、藤原詮子の養女として育てられている。 定子の妹・御匣殿が脩子内親王・媄子内親王・敦康親王の養育を託されていたとも。 |
藤原道隆 |
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12月16日の明け方に崩御した定子は、六道の辻の六波羅蜜寺に安置された後、27日、鳥戸野(鳥辺野)へ葬送された。 本人の希望により土葬とされたのだという。 葬儀を取り仕切ったのは、父の道隆に仕えた平惟仲だったのだという。 |
藤原定子の歌~死を悟った一条天皇皇后宮の遺詠の歌・辞世の歌~ 藤原定子の出産・崩御と平惟仲、平生昌、清少納言、藤原道長 |
『栄花物語』によると、定子は、雪が降る中を黄金づくりの糸毛車(最上格の牛車)に乗せられて埋葬の地に到着。 伊周は 「誰もみな 消え残るべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき」 隆家は 「白雪の 降りつむ野辺は 跡絶えて いづくをはかと 君をたづねむ」 と詠んでいる。 |
隆円は延暦寺の僧で、定子の同母弟。 大雪の中、定子の葬送に従った隆円は、哀傷の歌を詠んでいる。 |
隆円の歌~姉藤原定子の葬送の際に詠んだ歌~ |
定子の教育係として仕えた清少納言は、定子の才色兼備ぶりを『枕草子』に書き上げた。 晩年は、定子の眠る鳥辺野近くの東山月輪に隠棲したのだという。 東山月輪に建てられた泉涌寺に歌碑がある。 |
清少納言の父・清原元輔の邸宅は、泉涌寺の塔頭・今熊野観音寺付近にあったといわれる。 定子の鳥辺野陵は、今熊野観音寺の北にある。 |
桜は中宮・藤原定子!~清少納言が描いた桜は、散らない桜!~ 春はあけぼの~藤原定子と清少納言と枕草子~ |
清少納言と同族の清原頼業を祀る車折神社には、清少納言を祀る社が建てられている。 |
定子は、紫式部の『源氏物語』の主人公・光源氏の母・桐壺更衣のモデルといわれる。 とすると、父の桐壺帝は一条天皇がモデルなのかも。 そして光源氏は・・・ 美男だったという敦康親王がモデルということもあるのかもしれない。 |
定子や中宮・彰子の後宮サロンと並びたっていたのが選子内親王の大斎院サロン。 清少納言は『枕草子』に理想的な宮仕え先として、内裏・后宮・斎院御所(賀茂斎院)を挙げている。 紫式部は『紫式部日記』で、弟の藤原惟規の恋人・斎院中将の手紙を読んで批判もしているが・・・ 選子内親王の人柄や、斎院御所が風雅で神々しさのあることは認めている。 |
1011年(寛弘8年)6月22日に崩御した一条天皇は、定子と同じく土葬を望んでいたが、藤原道長は火葬を終えてからその事を思い出したのだという。 遺骨は東山の円成寺に安置された後、1020年(寛仁4年)6月16日に円融寺に改装された。 一条天皇の円融寺陵は龍安寺内にある。 |
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