紫式部「光る君へ」


藤原伊周
道長と関白を争った道隆の嫡男


編集:yoritomo-japan.com








 藤原伊周(ふじわらのこれちか)は、関白内大臣・藤原道隆の嫡男。

 母は高階貴子

 974年(天延2年)誕生。





~異常な昇進~

 990年(永祚2年)正月、妹の定子一条天皇に入内。

 同年5月、祖父兼家が病で関白を辞すと、父道隆が関白となり、10月には定子が中宮となる。

 昇進を続けた伊周は、994年(正暦5年)、内大臣に。

 この頃、叔父の道兼は右大臣で伊周の上位にあったが、もう一人の叔父道長は権大納言・中宮大夫如元で道長を越えての出世だった。

 この異常ともいえる昇進に不満をもったのが、一条天皇の生母詮子(伊周の叔母)で、後の伊周失脚と道隆一家(中関白家)の没落へつながっていく。





~父道隆の死と関白~

 995年(長徳元年)4月3日、病に伏した父道隆が関白を辞す。

 伊周を後継者にしようとした道隆は、一条天皇に願って伊周に内覧の業務を委ねたが、病中の内覧のみが許され、伊周の関白就任は許されなかった。

 道隆は、4月6日に出家し10日に薨去。


内覧とは、天皇より先に文書を見る役職。



藤原兼家

道隆

伊周

道兼
 ↓
道長



リンクボタン酒好きだった藤原道隆~酒の飲みすぎで亡くなった関白~





~道長との争い~

 4月27日、叔父の道兼が関白に就任するが、間もなく病に伏し、5月8日に没してしまう。

 伊周は、関白をめぐって叔父の道長と争うが、5月11日、一条天皇は道長に内覧の宣旨を下し、6月19日には伊周の上位となる右大臣に任命。

 これにより、道長が氏長者となり、関白に代わって政務を執ることが許された。

 叔母の詮子(一条天皇の母)が伊周より優れた資質をもった道長を強く推したことが背景にあるらしい。



リンクボタン関白にならなかった御堂関白・藤原道長~内覧と摂政と関白~










~左遷~

 道長との政権争いに敗れた伊周は・・・

 会議の席で道長と激しく口論したり、弟の隆家の従者が道長の従者と都大路で乱闘するなどの事件を起こし、

 8月2日には道長の従者・秦久忠を隆家の従者が殺害している。

 さらに、母高階貴子の父高階成忠が道長を呪詛しているという噂も流れた。

 翌年には、伊周が通っていた藤原為光の娘・三の君の屋敷に通い始めた花山法皇を、隆家と謀って待ち伏して襲い、従者が法皇の衣の袖を弓で射抜いてしまう(長徳の変)。

 花山法皇は四の君のところに通っていたのだが、伊周は自分の思い人三の君のところに通っていると勘違いしたのだという。

 いつ頃かは不明だが、宮中のみでしか行うことができない大元帥法を私に修したことも判明している。

 2月24日、長徳の変を起こし、詮子を呪詛し、太元師法を行った伊周は、三つの罪で大宰府へ左遷されている。

 弟の隆家は出雲国へ左遷。

 母の高階貴子は、出立の車に取り付いて同行を願ったが許されず、間もなく病に伏し、10月に薨去した。

 懐妊中の中宮定子(妹)は里第二条宮に退出して出家し、12月、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産している。



大元帥法は、怨敵・逆臣の調伏、国家安泰を祈って修される法で法琳寺に伝えられた。

隆家は病気を理由に出雲国までは行かず但馬国に留まったらしい。


藤原為光の娘・三の君と四の君は、出家前の花山天皇が寵愛していた藤原忯子の妹。

リンクボタン寝殿の上と藤原儼子~藤原伊周と花山法皇と長徳の変~





~最初の配流地は播磨国~

 伊周の最初の配流地は播磨。

 勅により播磨に留まることを許されたのだという。

 伊周が播磨国の明石にいることを知った母の高階貴子は息子を思う歌を詠んでいる。

 『栄花物語』にも須磨・明石を詠んだ伊周の歌がある。

 ただ、『栄花物語』は紫式部『源氏物語』~須磨・明石の巻~を参考に書かれたものらしい。

 播磨国に留まっていた伊周は、その後、病に倒れた母貴子を案じて秘かに入京するが、捕らえられ、改めて大宰府に護送されたのだという。



リンクボタン高階貴子の歌~明石にいる息子・藤原伊周を思って詠んだ歌~

リンクボタン藤原伊周の歌~播磨国左遷と栄花物語「浦々の別」~



源氏物語~須磨・明石~





一条院跡
リンクボタン一条院跡

 一条院は、藤原師輔の屋敷で、子の伊尹・為光に受け継がれたが、佐伯公行が為光の娘・寝殿の上から取得し、詮子に献上したのだという。

 寝殿の上は、伊周の思い人だった三の君のこと。





~最期~

 997年(長徳3年)4月5日、朝廷は詮子の病気が一向に快復しないことから大赦を発する。

 これにより伊周と隆家は罪を赦されて帰洛するが、二度と権力の座につくことはなかった。

 999年(長保元年)、定子が第一皇子の敦康親王を出産し、立太子に望みがかけられたが・・・

 1008年(寛弘5年)、道長の長女・彰子が第二皇子・敦成親王を出産したことで望みは絶たれた。

 1010年(寛弘7年)正月28日死去(37歳)。



リンクボタン藤原伊周と敦成親王の百日の儀~敦康親王に賭けていた伊周~

リンクボタン敦成親王・藤原彰子・藤原道長の呪詛事件

リンクボタン呪詛された藤原道長~首謀者は藤原伊周の叔母・高階光子~

リンクボタン権力を夢みた藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛事件そして最期~

リンクボタン藤原伊周の遺言~娘と息子は伊周の思いに反して~


リンクボタン東宮になれなかった敦康親王~藤原行成が一条天皇に進言したこと~

リンクボタン東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~

リンクボタン藤原彰子は敦康親王が東宮になることを望んでいた!





浄妙寺想像図
リンクボタン浄妙寺
(宇治陵)

 浄妙寺は、宇治木幡の宇治陵に道長が建立した寺。

 宇治陵には、伊周の父道隆も葬られたが、浄妙寺は室町時代に廃絶し、埋葬地も不明となっている。

 伊周は、左遷されるの当たって、宇治陵や春日大社を参詣したのだという。





~弟・隆家~

 伊周とともに道長と争った弟の隆家は、1044年(長久5年)に死去。

 平清盛の継母で源頼朝の命を救った池禅尼源実朝の正妻坊門姫は、隆家の子孫らしい。










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