紫式部「光る君へ」



藤原伊周の遺言
~娘と息子は伊周の思いに反して~


編集:yoritomo-japan.com








 996年(長徳2年)、花山法皇を襲撃するという事件(長徳の変)を起こして失脚した藤原伊周

 大宰府に左遷された後、翌年には都に戻されたが、二度と権力の座につくことはなかった。

 1010年(寛弘7年)正月28日、失意のうちに死去(37歳)。

 『大鏡』によると・・・

 重病となった際、長男の道雅らは祈祷をさせようとするが、伊周のもとへ来る僧はいなかったらしく、藤原道長に頼んで僧を派遣してもらったのだという。



~伊周が子に語った事~

 『栄花物語』によると・・・

 臨終に際して伊周は二人の娘に

 「自分の死後、宮仕えするということは末代までの恥」

 と語ったのだという。

 伊周は娘の将来や結婚について危惧するとともに、宮仕えや結婚で伊周の不名誉につながることは避けるよう言い聞かせた。

 宮仕えするということは使用人になるということ。

 伊周は自分の娘たちが使用人に身を落とすことを「自分の恥」と考えていたらしい。

 そして、息子の道雅には

 「官位を求めて他人に追従するなら出家せよ」

 と語ったのだという。


 しかし・・・


 二人の娘のうち、長女は道長の次男・頼宗が通うようになり結婚(正室)。

 次女は、道長の長女・彰子に仕えるようになる。

 長男の道雅は、敦成親王に仕えることとなるが、彰子の配慮があったものと考えられている。




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