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敦成親王・藤原彰子・藤原道長の呪詛事件


編集:yoritomo-japan.com








 1008年(寛弘5年)9月、藤原道長の娘で一条天皇の中宮藤原彰子が待望の男児を出産(第二皇子・敦成親王)。

 これによって、妹の藤原定子が産んだ第一皇子・敦康親王の即位を望んでいた藤原伊周は大きな打撃を受けることに。

 そんな中に起こったのが、敦成・彰子・道長の呪詛事件。

 事件が発覚したのは1009年(寛弘6年)正月30日。

 『日本紀略』によると、首謀者は高階光子・伊周の家人源方理とその妻・源為文(方理の妻の父)の4人。

 『政事要略』によると、実行犯は法師陰陽師の円能。

 円能は前年12月、光子らから伊周のために呪詛することを依頼されたのだという。

 円能の証言によると・・・

 弟子の僧妙延・従者の童子糸丸・光子邸に出入りしていた僧道満も関与していたらしい。

 藤原行成の『権記』によると、道長は行成に一条院からもってきた厭符を見せ

 「これは彰子敦成親王への呪符である」

 と語っていたのだという。





~真っ先に疑われた高階家~

 高階光子は、伊周の母・高階貴子の妹。

 父の成忠は995年(長徳元年)、娘婿の藤原道隆の薨去後、伊周と道長が政権を争った際、陰陽師に道長を呪詛させている。

 翌年、伊周は長徳の変を起こし、さらに道長の姉・詮子を呪詛したなどの罪で左遷されている。

 そのため、敦成・彰子・道長の呪詛事件で真っ先に疑われたのは伊周と高階家。

 『栄花物語』によると、道長は成忠の息子・明順を容疑者として断定。

 『権記』によると、恐れた明順は道長のもとから退出したらしいが・・・

 『栄花物語』によると、道長のもとを退出して数日後に体調を崩して亡くなったのだという。

 ただ、伊周の叔母の高階光子と家人の源方理は官位を剝奪され、伊周は公務を停止されたが、明順は処罰者の中には含まれていなかったらしい。





~法師陰陽師~

 事件の実行犯の円能は、源方理室の父源為文に仕えていた僧。

 陰陽師でもあり法師陰陽師と呼ばれていた。

 陰陽師には、安倍晴明のような官人である陰陽師と、法師の格好をした民間の陰陽師がいた。

 はらへどの
 神のかざりの
 みてぐらに
 うたてもまがふ
 耳はさみかな


 この歌は、賀茂川の河原にいた法師が陰陽博士のようにしているのを憎らしく思った紫式部が詠んだ歌。  



リンクボタン法師が陰陽博士を気取っているの見て(紫式部の歌)





~円能の供述に出てきた道満~

 円能の供述で高階光子邸に出入りしていた道満は、道長を呪詛したという伝説で知られる蘆屋道満のことらしい。

 ただ、円能は処罰されている道満は処罰されていないようなので、事件に直接関与していないのかもしれない。 



リンクボタン藤原道長を救った白い犬と安倍晴明の占い





~翌年亡くなった伊周~

 公務を停止された伊周は、彰子が再び懐妊したこともあって、6月には朝参を許されたが・・・

 1010年(寛弘7年)正月28日死去(37歳)。

 『栄花物語』によると死因は飲水病(糖尿病)だったらしい。



リンクボタン権力を夢みた藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛事件そして最期~

リンクボタン藤原伊周の遺言~娘と息子は伊周の思いに反して~











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