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1011年(寛弘8年)の春先から体調を崩していた一条天皇は、5月になって容態が悪化。 寵愛していた藤原定子が生んだ第一皇子の敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいた一条天皇は、5月27日、藤原行成に敦康親王立太子の可否を問うたが・・・ 行成は藤原道長の娘で中宮の藤原彰子が生んだ第二皇子・敦成親王を東宮に立てるよう進言した。 その理由は・・・ |
第一:外戚が重臣かどうか 皇位の継承は、第一皇子であるとか、寵愛した妃が生んだということで決めるのではなく、外戚が重臣かどうかで決めるもの。 今、左大臣は藤原道長であるので、第二皇子の敦成親王を東宮とすべきである。 |
行成は・・・ 文徳天皇は寵愛した紀静子が生んだ第一皇子の惟喬親王を東宮にすることを望んだが、外戚の藤原良房が朝廷の重臣であったため、第四皇子の惟仁親王(のちの清和天皇)が東宮となったという先例を挙げている。 |
第二:神の思し召し 皇位は、神の考えによるものであって、決して人力の及ぶところではない。 |
行成は・・・ 一条天皇が敦康親王を東宮に立てること望んでも、道長を納得させることは難しく、政変が起こる可能性を申し上げるとともに、淳和天皇の第二皇子・恒貞親王は東宮に立てられたが、承和の変で皇太子を廃されていることを例に挙げている。 |
第三:敦康親王の外戚高階氏 藤原定子の母・高階貴子は高階師尚の子孫であるため、伊勢神宮に憚るところがある・・・ |
高階師尚は、伊勢斎宮の恬子内親王と在原業平の不義密通の子と伝えられていた。 |
東宮になれなかった敦康親王~伊勢物語と外戚・高階氏~ |
6月2日、敦康親王は行成の進言もあって一品親王に叙せられ、三后(三宮)に准じた処遇を与えられた(准后)。 病が重くなっていた一条天皇は、6月13日、居貞親王(三条天皇)に譲位。 東宮には敦成親王が立てられている。 |
6月22日、一条天皇崩御。 7月8日夜に火葬された遺骨は、翌日、東山の円成寺に安置。 1020年(寛仁4年)6月16日、遺骨を円融寺に改葬。 円融寺北陵は龍安寺内にある。 |
藤原彰子の歌~撫子を手に取る幼い我が子を見て詠んだ歌~ 藤原彰子は敦康親王が東宮になることを望んでいた! 一条天皇の火葬と埋葬 |
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