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1011年(寛弘8年)6月22日、一条天皇は一条院で崩御(32歳)。 |
土葬を望んでいたが火葬された! |
生前、土葬とすることと父・円融天皇の御陵(御村上陵)あたりに埋葬することを望んでいた一条天皇。 そのことは、中宮の藤原彰子や藤原道長をはじめとする近習に伝えていたというが・・・ 藤原行成の『権記』によると、道長はその事を忘れていたらしい。 道長の『御堂関白記』によると、一条天皇は7月8日夜に火葬され、遺骨は翌日、東山の円成寺に安置された。 藤原実資の『小右記』によると、金輪寺に安置すべきだったが日次がよくないので禅林寺近隣の円成寺に安置し、8月2日に金輪寺に埋葬する予定だったのだという。 |
一条天皇火葬塚 |
大豊神社 |
一条天皇は、鹿苑寺の北の巌陰で火葬されたのだという。 遺骨が安置された円成寺は、889年(寛平元年)、藤原淑子が椿ヶ峰に建立した寺院だったのだと伝えられる。 哲学の道にある大豊神社は、円成寺の鎮守社だったのだという。 |
金輪寺に埋葬する予定だったが・・・ |
藤原実資の『小右記』によると、道長が一条天皇の言葉を思い出したため・・・ 金輪寺に埋葬する予定だった遺骨は、そのまま円成寺に安置し、三年後に円融天皇の御陵あたりに埋葬することとなったのだという。 三年後となったのは・・・ 西方に大将軍があったため。 円融天皇の御陵は、円融天皇が崩御した円融寺(現在の龍安寺)の近くにあり、円成寺(椿ヶ峰)の西方。 大将軍(金星の精)のいる所は万事にとって凶。 大将軍は、同じ方位に三年間留まるといわれ、「三年塞がりの大将軍」と呼ばれていた。 そのため、三年間は円成寺に安置して、一周忌まで阿弥陀護摩を修することとなり、7月20日、円成寺に納骨された。 |
円融天皇 後村上陵 (洛西) |
大将軍神社 (東山) |
一条天皇の父・円融天皇は、円融寺の北原で火葬され、遺骨は父・村上天皇陵の傍らに葬られた。 東山の大将軍神社は、桓武天皇が大内裏鎮護のために都の四方に祭祀した大将軍神社の一つ。 |
物忌み~源氏物語にも描かれた陰陽道信仰~ 方違え~方位神のいる方角を避ける陰陽道の信仰~ |
改葬されたのは9年後 |
皇后宮だった藤原定子と同じ土葬を望み、父の円融天皇の御陵あたりに埋葬される事を望んでいた一条天皇。 しかし、火葬され、その遺骨は円成寺に納骨された。 望みどおりに円融寺に改葬されたのは、崩御から9年後の1020年(寛仁4年)6月16日のことだった。 円融寺北陵は龍安寺内にある。 |
藤原彰子の歌~撫子を手に取る幼い我が子を見て詠んだ歌~ |
何故、火葬だったのか? |
在位中の天皇が崩御したときは土葬、譲位した天皇(上皇(太上天皇))の場合は火葬という慣例があったのだという。 一条天皇は、居貞親王(三条天皇)に譲位した後に崩御しているので、火葬とされたのかもしれない。 ただ、一条天皇は上皇の称号を受けずに崩御していることから、天皇として土葬とすべきだったという説もある。 いずれにしても、一条天皇の葬法が誤りであったのかどうかは不明。 |
一条天皇が寵愛した皇后宮・藤原定子は、本人の希望により鳥辺野(鳥戸野)に土葬されたのだという。 一条天皇は何故、土葬を望んだのか? もしかしたら定子と同じように葬られたかったのかもしれない。 |
一条天皇の遺詠歌と藤原定子の遺詠歌、そして源氏物語 |
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